醜聞から没落へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/19 14:39 UTC 版)
彼女は莫大な財産を稼ぎ、1860年代後半にはいくつもの家や厩舎を所有し、最高級の衣装部屋や贅沢きわまりない宝石に囲まれていた。英国の口座には、パリの店から取り寄せた下着に対して18,000ポンド以上もの額をつけた請求書が記録されている。 コーラが彼女なりの生活を楽しんでいくためには、大金を惜しまぬ愛人を必要とした。男達は大枚をはたく故に彼女を独占しようと試みる。アレクサンドル・デュヴァルという名の20代の若い裕福な男もまた、37歳のコーラを自分だけのものにしようと言い寄り、彼女を辟易させていた。コーラはデュヴァルと何度も手を切ろうとしたが失敗。デュヴァルはコーラのために大金を費やしてきたにも関わらず、他の男とコーラがくっついたと聞いて嫉妬に狂った。コーラが関係を終わらせようとデュヴァルに最終宣告すると、デュヴァルは1872年12月19日、彼女の屋敷にやってきて玄関先でピストル自殺をはかるという事件を起こした(このときピストルが暴発し、デュヴァルは死亡には至らなかったものの、重傷を負った)。しかし文字通り命を懸けたこの決死の行為に対しても、コーラは誰の助けも医者も呼ぶこともせず、何事もなかったかのように自室に戻り、眠りについたのである。しかしこの事件の噂は瞬く間に広まり、彼女の女優としてのキャリアは突如終幕を迎えることになった。コーラは気分転換と局面打開を兼ねて、逃げるようにロンドンに渡ったが、例の噂はそれよりも早く英国に上陸しており、彼女の身の置き所はすでになかった。一方、同年12月26日のフィガロ紙には「共和国となったフランスから2人の大物が去った。ナポレオン公とコーラ・パールである」と報じている。 ロンドンで高級娼婦を続けようとしていたコーラの企みは失敗に終わり、わずかの金持ちが彼女に興味を示しただけだった。その後彼女はモンテカルロ、ニース、ミラノをさまよったが、再びパリに戻ると、状況の変化に愕然とする。もはや過去の取り巻き連中はとっくに去っており、富のない男性が彼女に声をかけるのみだった。 それでも若年の頃からのギャンブル癖は直っていない。そもそも彼女にはカジノや店から即時の支払いを要求される事態に直面することを想像する能力が欠けていた。しかしもはや勘定を肩代わりしてくれる支援者はいなかった。自暴自棄になったコーラは1876年以降、財産を切り売りして借金の返済に充てる一方、時折街角に出て売春婦に戻るような生活となった。それでもコーラは借金がかさむのを気にもせず、比較的快適な暮らしを10年ほど続けていた。1886年春には『コーラ・パール自伝』がフランス語で出版された。同年、パリ16区のバッサノ街 (Rue de Bassano) 8番地建物2階の自室で大腸癌により死去した。死去した時に埋葬するための毛布を隣人に借りなければならなかったという話も残る。訃報はロンドン・パリの各新聞で報じられ、亡くなった時の所有財産は、同年10月に売却・整理された。第二帝政期を奔放に生きた娼婦コーラ・パールは今も、バティニョールの共同墓地4列10番に、墓石もないまま葬られている。
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