醜聞と死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/13 10:33 UTC 版)
「ユッルス・アントニウス」の記事における「醜聞と死」の解説
しかし、いつからかは定かではないが、ユッルスはアウグストゥスの娘ユリアと不倫の関係を結ぶこととなる。ユリアはアグリッパが紀元前12年に死ぬと、義兄にあたるティベリウスとの結婚を強いられたものの、間もなく夫婦関係は破綻を迎えた。ユリアは自身の欲求を満たさないティベリウスとの離婚を熱望し、そしてそんな彼女を受け入れたのがユッルスだった。 紀元前8年、ティベリウスはユリアと、彼女とアグリッパとの間に生まれた5人の子供たちを残してローマを去った。立場に不安を感じたユリアは子供たち、特にアウグストゥスの後継者であるガイウス、ルキウスの後ろ楯を求めて、ユッルスに接近した。 同時代、そして近代の歴史家が共通して示唆しているところでは、ユッルスはアウグストゥスに対する陰謀を企み、ユリアとの結婚、そしてあわよくばガイウスとルキウスが成年に達するまで、一種の摂政政治を行うことを望んでいた。もっともユリアは、父アウグストゥスと自身の息子たちを危険にさらそうとは思っていなかった。彼女が目論んだのは、ティベリウスとの離婚と、ユッルスを息子たちの後見人にすることだけだっただろう。 2人の関係は紀元前2年に終わりを迎えた。アウグストゥスがユリアの放埒な性関係に対して動き出し、ユッルスが彼女の最も重要な愛人であることが白日の下に晒されたのである。ユリアと関係を持った他の男たちは国外追放に処されたが、ユッルスのみは外患罪で死を宣告された。その直後、ユッルスは自殺した。
※この「醜聞と死」の解説は、「ユッルス・アントニウス」の解説の一部です。
「醜聞と死」を含む「ユッルス・アントニウス」の記事については、「ユッルス・アントニウス」の概要を参照ください。
- 醜聞と死のページへのリンク