酒米の開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 09:39 UTC 版)
課税に耐えて生き残ることができた酒蔵は、富裕な大地主によって開かれたものが多かった。それまで大地主たちは不作や飢饉の時にそなえて、毎年の収穫から一定量の米を備蓄するのが通例であったが、不作や飢饉がなければ備蓄米はそのまま古くなって無駄になるリスクがつきまとった。また、大豊作の年には米が余って米価が暴落するというリスクもあった。そこで彼らは、備蓄米や余剰米を自分がやっている酒蔵へ原料として回した。こうした酒蔵のなかには、そのまま発展して今日の日本酒業界でいわゆる「大メーカー」となっている会社も多い。 米の使途の比重として、酒造りが大きくなってきた地方では、食用でなく酒造りに向いている米の探究が盛んに行なわれるようになった。1860年(万延元年)にすでに伊勢国多気郡の岡山友清が在来品種である大和から醸造適性のある品種伊勢錦を純系分離したのに範をとって、1866年(慶応2年)岡山県では岸本甚造が在来品種より備前雄町を、1877年(明治10年)に兵庫県の丸尾重次郎が在来品種程吉(程良・程好ともいう)から神力(しんりき)を、1889年(明治22年)に山口県の伊藤音市が兵庫県の在来品種都より穀良都を、1891年(明治24年)に鳥取県の渡邊信平が在来品種より強力(ごうりき)を、それぞれ選抜・純系分離し、酒造好適米として品種特性を固定していった。また起源には複数説があるが、のちに日本を代表する酒米となるものとして、明治時代前期に兵庫県で山田穂が品種特性を固定されている。しかしながら、まだ科学的再現性というものが導入されていなかったこのころの醸造業界では、今日に比べると技術が拙なく、いかに良い酒米を用いても醸造しているうちに腐造してしまうことも多かった。このような状況が、政府主導によって全国規模で酒造りに関する情報を交換し、酒造場相互の技術の向上を図る必要を生み、やがて明治時代後期の品評会や鑑評会へとつながっていった。 酒米の開発はその後も意欲的に続けられ、1895年(明治28年)滋賀県立農事試験場が備前雄町から渡船を、1897年(明治30年)島根県では御原岩次郎が在来品種晩稲大関より早大関を、1893年(明治26年)から1897年(明治30年)ごろにかけて山形県にて阿部亀治が在来品種惣兵衛早生より亀の尾を、それぞれ選抜・純系分離し、酒造好適米として品種特性を固定していった。
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