酒と酒宴
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:52 UTC 版)
唐代は、酒の禁令がなかったため、酒造業が急速に発展した。酒の種類は増加し、紅麹の酒など甘い酒が中心であり、また、好まれた。多くの詩人が飲酒をテーマに漢詩で唱った。 酒の中でも葡萄酒は、高昌国を制圧したことで、葡萄と醸造技術が伝えられ、葡萄酒の味が向上し、広まっていった。葡萄酒は紅のものと、白のものがすでに存在していた。葡萄酒は西涼州産が最高級のものとして知られていた。また、果実酒も存在した。杯は木製、陶磁器は主流であったが、高級なものに白玉製やガラス製があった。 当時の酒宴は、食事が終わって酒を飲んだ。酒宴は午後にはじまり、日暮れに終わり、夜に酒宴を行うと照明に多額の費用がかかった。相手に酒を奨める時は、杯に酒を酌んで奨めた。順次に一人ずつ杯から酒を飲み、一斉に飲むことはなかった。また、酒宴の時に音楽が奏でられ、歌が歌われることがあった。歌舞は楽人や妓女たちだけでなく、主人や客から行われることもあった。 冬の季節には、遊牧民族が行うゲル(氈帳)を邸宅の庭に設置し、中に炉を置いて、酒宴を行う風習も存在した。 酒宴の時に行われる様々な遊戯は、酒令と呼ばれた。酒令の遊戯は文学的なもの多かった。参加者は20名程度を標準とし、主人の他に酒を管理する「明府」、酒宴を運営する二名の「録事」が定められた。遊戯には、壺に矢をいれて数を競う「投壺」、二組に分かれて相手の組のうち背にものを持った人物をあてる「蔵鈎」、盆でものを隠して、なにが入っているかを当てる「射覆」があった。いずれも負けた場合には、罰杯が課された。唐代には、「指巡胡」という片手をあげた胡人の人形を回し、倒れた人形の指が示した人物が罰杯を飲むという遊戯が生まれた。また、「骰子令」というサイコロを使った遊戯もあった。複雑なものとして、「律令」という古典を利用した遊戯があり、その中には、筒の中にいれた籤をひき、そこにある古典を模した言葉により、罰杯の相手を決める「酒籤」や古典の知識を競い合うものがあった。また、「著辞令」というで即興で詩をつくり、曲をつけるものがあった。
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