選集出版家と評論家
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「ルーファス・ウィルモット・グリスウォルド」の記事における「選集出版家と評論家」の解説
1842年、グリスウォルドは476ページに及ぶアメリカの詩集『アメリカの詩人と詩』を出版した。この本は画家で詩人のワシントン・オールストンに献呈したものだった。グリスウォルドは80人以上の詩人の詩を集めており、レディア・シゴーニーの詩が17編、エドガー・アラン・ポーのものが3編、チャールズ・フェノ・ホフマンのものが45編入っていた。ホフマンはグリスウォルドの親友であり、他のどの詩人より2倍以上のスペースが与えられた。グリスウォルドは、「最近死んだ著名人」の備忘録を集めた『伝記の年鑑』や、『アメリカ女流詩人の宝石箱』、『アメリカの散文詩人』、『アメリカの女流詩人』など多くの選集を監督するようになった。 1842年から1845年、グリスウォルドが『アメリカの散文詩人』の材料を集めている間に、当時ウィリアム・ランダーというペンネームで「バートンズ」などの文学雑誌に掲載していたホレス・ビニー・ウォレスの作品を見つけた。ウォレスはその選集に掲載されることを辞退したが、二人は友人となり、その後の年月で多くの手紙を交わした。その後、ウォレスはグリスウォルドの代わりに『ナポレオンと帝国の元帥達』(1847年)を代筆することになった。 1847年に出版された『アメリカの散文詩人』は、特にコーネリアス・マシューズやエバート・オーガスタス・ダイキンクが製作した類似選集と競合するように準備された。この散文詩集によってグリスウォルドが二人と競合関係となり、それはグリスウォルドが期待していたことだった。それが出版されるときに、グリスウォルドはボストンの出版者ジェイムズ・トマス・フィールズに「若いアメリカは過激になるだろう」と書き送っていた。グリスウォルドはその選集を準備するときに、掲載しようとしている存命の詩人に手紙を送り、どの詩を載せるべきか提案を求め、さらに伝記的なスケッチのための情報を集めていた。 1843年、グリスウォルドは随筆、小説、詩を集めた年刊の文芸誌「オパール」を創刊した。ナサニエル・パーカー・ウィリスがその創刊号を編集し、1844年秋に発売された。グリスウォルドは暫くの間「サタディ・イブニング・ポスト」紙の編集者であり、1844年には詩集『糸杉のリース』も出版した。グリスウォルド自身の『死の幸福な時』、『若い少女の死の時に』、『死の眠り』といった題の詩は、死の必然性や喪の意を強調していた。別の詩集『クリスチャンのバラードとその他の詩』も1844年に出版され、またノンフィクションの『共和制のコート、あるいはワシントンの時代のアメリカ社会』は1854年に出版された。この本はジョージ・ワシントンが大統領だった時代の出来事を収めることが意図されたが、歴史的な事実と出典の疑わしい伝承とを、一読では識別しがたいように混合させていた。この期間、グリスウォルドは時々説教を行う説教師を務めることがあり、イリノイ州のバプテスト系大学のシャートレフ・カレッジから名誉学位を得た可能性がある。このことで「グリスウォルド博士牧師」というニックネームを得ることになった。
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