近藤重蔵(こんどうじゅうぞう 1771-1829)
幕府書物奉行、探検家、択捉に「大日本恵土呂府」の木標を建立、「今所考定分界之図」の製作者。
近藤重蔵は、幕府与力近藤守智の子として江戸で生まれ、名を守重といった。
寛政 8年(1796)蝦夷地警備のことを幕府に進言して、1798年松前蝦夷地御用扱いとして蝦夷に赴任、国後・択捉などを探検した。
寛政10年(1798)択捉にロシアの標柱に代えて「大日本恵土呂府」の木標を建てたことはあまりにも有名である。帰途、日高海岸の道が危険きわまりないことから、私費を投じて道を開き、翌年には高田屋嘉兵衛をして択捉航路を開かせた。また、千島アイヌに物品・漁具を与え、日本の風俗を勧め、移住者の促進と海産物の生産向上に尽くし、文化 4年(1807)利尻巡視の帰途には、石狩川下流を調査し、蝦夷地の本拠地を石狩の地とすべきことを建議した。
その後も、北方各地を探検し辺境の防備・開拓に当たり、「チュプカ(千島)諸島図」(1800)、「蝦夷地図」(1802)を作製した。特に蝦夷図の正確さには驚かされるが、どのような資料に拠ったのかは不明である。その後「辺要分界図考」(1804)を著し、そこには国後、択捉など千島をなど日本周辺の地図「今所考定分界之図」(1804)などが含まれている。
文化 5年(1808)これまでの功績により、書物奉行に任ぜられたが、長子富蔵が別荘の所有権をめぐって隣家と対立し、その一家七人を殺傷した事件により、文政 9年に近江大溝藩預かりとなり、藩邸内の獄舎で生涯を終える不遇の晩年であったという。しかし、その間にも大溝藩士と親交し、近江の植物図鑑ともいうべき「江州本草」三十巻を著した。富蔵は、八丈島に流罪になるが、明治13年76歳の時に赦免となり、罪を悔いて父の墓を度々訪問し、八丈島の教育文化に尽くしたという。
近藤重蔵は、幕府与力近藤守智の子として江戸で生まれ、名を守重といった。
寛政 8年(1796)蝦夷地警備のことを幕府に進言して、1798年松前蝦夷地御用扱いとして蝦夷に赴任、国後・択捉などを探検した。
寛政10年(1798)択捉にロシアの標柱に代えて「大日本恵土呂府」の木標を建てたことはあまりにも有名である。帰途、日高海岸の道が危険きわまりないことから、私費を投じて道を開き、翌年には高田屋嘉兵衛をして択捉航路を開かせた。また、千島アイヌに物品・漁具を与え、日本の風俗を勧め、移住者の促進と海産物の生産向上に尽くし、文化 4年(1807)利尻巡視の帰途には、石狩川下流を調査し、蝦夷地の本拠地を石狩の地とすべきことを建議した。
その後も、北方各地を探検し辺境の防備・開拓に当たり、「チュプカ(千島)諸島図」(1800)、「蝦夷地図」(1802)を作製した。特に蝦夷図の正確さには驚かされるが、どのような資料に拠ったのかは不明である。その後「辺要分界図考」(1804)を著し、そこには国後、択捉など千島をなど日本周辺の地図「今所考定分界之図」(1804)などが含まれている。
文化 5年(1808)これまでの功績により、書物奉行に任ぜられたが、長子富蔵が別荘の所有権をめぐって隣家と対立し、その一家七人を殺傷した事件により、文政 9年に近江大溝藩預かりとなり、藩邸内の獄舎で生涯を終える不遇の晩年であったという。しかし、その間にも大溝藩士と親交し、近江の植物図鑑ともいうべき「江州本草」三十巻を著した。富蔵は、八丈島に流罪になるが、明治13年76歳の時に赦免となり、罪を悔いて父の墓を度々訪問し、八丈島の教育文化に尽くしたという。
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