鎗ヶ崎事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 07:07 UTC 版)
重蔵は本宅のほかに、三田村鎗ヶ崎(現在の東京都目黒区中目黒2-1)に広大な遊地を所有しており、文政2年(1819年)に富士講の信者たちに頼まれて、その地に富士山を模した富士塚(目黒富士)を築造した。目黒新富士、近藤富士、東富士などと呼ばれて参詣客で賑い、門前には露店も現れた。文政9年(1826年)に上記の三田の屋敷の管理を任せていた長男の近藤富蔵が、屋敷の敷地争いから町民7名を殺害して八丈島に流罪となり、父の重蔵も連座して近江国大溝藩(藩主は分部光寧。現在の滋賀県高島市)に預けられる。
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