近代観光の目的地へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 01:17 UTC 版)
19世紀になると、シーボルトが瀬戸内海の風景を絶賛した。また明治時代にはトーマス・クックやユリシーズ・グラントなどの欧米人が来日し、近代的な「観光のまなざし」(この概念についてはジョン・アーリを参照のこと)によって瀬戸内海を再編していった。すなわち近世以前の瀬戸内海観光が文学作品を媒介とした「名所」訪問や、由緒ある神社仏閣への参拝という形式を持っていたのに対し、欧米人は瀬戸内海各地で(当時)当たり前のように見られた風景(多島海、段々畑、白砂青松、行き交う和船など)に注目し、これらに観光資源としての価値を与えていった。言い換えるならば、近代の訪れとともに、瀬戸内海観光は「意味」を求める観光から、「視覚」による観光へと変質していったのである。フェルディナント・フォン・リヒトホーフェン男爵は『支那旅行日記』(1943年 昭和18年)を遺しており、瀬戸内海を“世界の中でも特筆すべき、島々と海洋が織りなす美の壮観〈多島美〉の世界である”と賞賛しており、ここに辿りついた多くの欧米人は、多島海の美しさや自然と人の暮らしが融合した穏やかな景観、そしてシークエンス景(船から見た動景)に魅了され、瀬戸内海を絶賛している。 更に1912年(明治45年)5月には、大阪商船が別府温泉の観光開発を目的として阪神・別府航路にドイツ製貨客船「紅丸」を就航させ、純粋に観光を目的とした船旅が大人気となった。1934年(昭和9年)には前述のように日本初の国立公園の一つとなる。 また戦後も、阪神・別府航路を引き継いだ関西汽船が、1960年(昭和35年)に「くれない丸」を就航、その後3,000トン級クルーズ客船が最大時6隻体制となった別府航路(瀬戸内航路)は、阪神と九州を結ぶ観光路線として多くの新婚旅行客を別府温泉などへと運んだ。
※この「近代観光の目的地へ」の解説は、「瀬戸内海」の解説の一部です。
「近代観光の目的地へ」を含む「瀬戸内海」の記事については、「瀬戸内海」の概要を参照ください。
- 近代観光の目的地へのページへのリンク