輝けるアテン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 09:35 UTC 版)
アメンヘテプ3世の年長の王子トトメスは夭折し、別の王子アメンヘテプ4世(前1351年 - 前1334年)が即位することになった。彼はアメンヘテプ3世時代に共同統治者であったという説があり、これを巡っては長い論争があるが結論が出ていない。 アメンヘテプ4世は唯一の神アテンに対する信仰という独自の宗教政策によってあまりに有名な王である。アテン神は太陽神であり、古くは中王国時代から日輪を象徴した形で登場するが、この時代に重要性を極めて増した。既にアメンヘテプ3世時代に、王室所有の船の名前に「輝けるアテン」の名が用いられるなどしていたが、父王の跡を継いだアメンヘテプ4世は、長期にわたって続いていた王権とアメン神官団との対立を決定的に解決すべく、アテン神を唯一の神とする宗教改革を実行した(アマルナ革命)。即位後まもなく、アメン大神殿(カルナック神殿)の東側にアテン神殿を建設するという決定を下した。平行してエジプト各地にアテン神殿が建設され、更に治世第4年には新都アケトアテン(「アテンの地平線」、現在のアマルナ)の建設を決定した。この新都建設の意図は、アテン神信仰の総本山を確保することにあったのであろう。そして治世第6年目までには自分の誕生名(ラーの子名)をアクエンアテン(「アテンにとって有用なる者」)に改称し、アメン神信仰との決別が高らかに宣言された。王妃であったネフェルティティにも、ネフェルネフェルウアテン(「アテン神の麗しき美」)という修辞がつけられるようになっている。 治世第9年にはアテン神の公式名は「アテンとして帰って来た父ラーの名によって、地平線で歓喜する地平線の支配者ラー」と変更され、これと前後してアメン神官団を中心に異なる神に仕える神官への迫害が始まった。アメン神の名前が刻まれた記念物からはこれが取り除かれ、対象は王名の「アメン」ヘテプにさえ及んだ。各地のアメン神殿が閉鎖され、他の神々の神殿に対しても、アメン神殿に対するほど徹底的ではなかったが、介入が行われ公的な祭祀は停止された。聖像美術においては人型をした神の描写が否定された。 このようにして崇拝が行われたアテン神は、エジプト人のみならずあらゆる人々に恩恵を与えるとされたことや、王による祭祀の独占など、帝国的に拡大したエジプト新王国に相応しいいくつかの要素を持っているかに見えたが、アテン信仰がエジプト人全般へと広まることはなかった。現在までにわかっていることでは、アテン神信仰は実際にはアクエンアテン王と、取り巻きの少数の官吏の間に広まっただけであり、アテン神のための首都アケトアテンの住民でさえ古い信仰を維持していたことがわかっている。これは伝統的な宗教観の急激な変化は、多くのエジプト人の受け入れる所とならなかったことや、アメン神官団をはじめとした諸神官の抵抗に加え、アクエンアテン王自身がアテン信仰の普及と拡大よりは、自分と神の交感の方に熱中していたためと言われている。 しかも、アクエンアテン王治世にはシリアにおいてヒッタイトのシュッピルリウマ1世とアムル人のアムル王国(英語版)のアジル(英語版)の活動によってエジプトの支配が後退し、残されたシリア南部の領土にも離反の動きが出始めていた。こうした外交的失敗はアテン神の力に対する疑問を呼び起こさずにはいなかった。やがてアクエンアテン王が死去するとアテン信仰は激しい逆風に晒されることとなる。
※この「輝けるアテン」の解説は、「エジプト第18王朝」の解説の一部です。
「輝けるアテン」を含む「エジプト第18王朝」の記事については、「エジプト第18王朝」の概要を参照ください。
- 輝けるアテンのページへのリンク