軍事史における再検証
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:20 UTC 版)
「エルヴィン・ロンメル」の記事における「軍事史における再検証」の解説
1970年代以降、欧米の軍事史家などによって軍人としての資質や能力について再検証されるようになった。 イスラエルの軍事史家マーチン・ファン・クレフェルトは、1977年の著書『補給戦』において、ロンメルがヒトラーより十分な支援が受けられず、常に補給に苦しんでいたという従来からの見方を、綿密な資料の調査で覆して以下の様にロンメルの補給軽視の姿勢を指摘した。 ヒトラーがロンメルを十分助けなかったという、しばしば聞かれる説は正しくない。ロンメルは北アフリカで維持できる最大の部隊を与えられたし、それ以上の兵数も与えられた。これらの部隊を維持するために、ロンメルは同程度の規模と重要性を持つ他のドイツ軍団よりも、比較にならぬほどの多くのトラックを与えられていた。リビアの港湾能力が低く運搬距離が非常に遠かった以上は枢軸国側の中東進撃を補給する問題は解決不可能だったことは明らかだ。北アフリカでは限られた地域を守るために部隊を送るというヒトラーの最初の決定は正しかった。そしてロンメルが再三にわたってヒトラーの命令に挑戦して基地から適当な距離を超えて進撃を試みたことは誤りであって、決して黙認すべきことではなかったであろう。 その後に連合国に押収されていた大量の資料が返却されると、ドイツ国内でも反ヒトラーの象徴として英雄視されていたロンメルの再評価が始まった。1984年にはドイツ連邦国防軍事史研究局が編纂した公式第二次世界大戦史「ドイツ国と第二次世界大戦」では北アフリカ戦線のトブルク要塞攻撃などを分析し、ロンメルは不十分な攻撃準備しか行わず、結果的に自軍に大損害を出したと批判している。 2000年代になると、欧米の軍事史では、ロンメルは軍人として戦略的視野や高級統帥能力の面で欠けるところがあったが、戦術的な次元では有能な指揮官だったという評価が定着したといわれている。 一方、2010年代に入るとドイツではヒトラーが率いた軍の軍人としてのロンメルという政治面での問題提起が行われるようになった。 ヨーロッパでのナチスの迫害を逃れて、パレスチナに避難してきたユダヤ人にとって、ロンメルは恐怖の代名詞であった。多くのユダヤ人避難民は、ロンメル率いるアフリカ軍団が勝利してエジプトを占領すれば、英委任統治領であるパレスチナにも侵攻してくると恐れていた。この時期は「不安の200日」と呼ばれ、ユダヤ人の武装勢力ハガナーはドイツ軍侵攻に備えて常備軍パルマッハを結成している。そのため、イスラエルでは「犯罪者(ヒトラー)に仕えた者も犯罪者」という理由で評価は低い。 2011年以降、ドイツのハイデンハイムにあるロンメルの記念碑の取り扱いを巡って論争が起きている。
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