軍事刑務所化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 02:12 UTC 版)
南北戦争の前後から、島は監獄としての役割も果たすようになった。地下の留置場に、島内や周囲の砦から送られた脱走兵、窃盗犯、酔っ払いなどが収容された。1861年、アルカトラズ島は太平洋省の軍事刑務所として正式に指定された。南北戦争中には、反逆罪で捕らえられた南部連合派のカリフォルニア市民もここに収監された。収容者は増加し、1863年ころロウアー・プリズン (Lower Prison) と呼ばれる刑務所棟が建てられ、19世紀末ころまで平均100人を収容していた。アメリカの西部開発に伴って、アメリカ政府とインディアンとの紛争が多発し、反乱罪などでアルカトラズ島に送られたインディアンも多かった。 米西戦争(1898年)の時は、フィリピンへの遠征で熱帯病に罹患した帰還兵がアルカトラズ島の病院に収容されたり、身柄を拘束された兵士が多数収監されたりした。新たな刑務所棟が必要となり、1900年、閲兵場にアッパー・プリズン (Upper Prison) が建設された。ロウアー・プリズンは囚人の運動場となったが、1902年の火事でロウアー・プリズンは危うく焼けるところであった。 1906年、サンフランシスコ地震で街が壊滅し、市内の刑務所に火災の危険が迫ると、そこにいた一般の受刑者176人が急遽アルカトラズ島に移された。このころから島は本格的な刑務所へ転換することとなり、今までの歩兵に代わり軍看守が配置され、1907年には島は「アルカトラズ島・合衆国軍事刑務所太平洋支所」との指定を受けた。砦は取り壊され、1912年に3階建ての大型監房棟が島中央にでき、合計600の監房、厨房、食堂、病院、運動場、管理事務所などを備えた大刑務所となった。発電所も建設された。 1915年、島は「合衆国矯正兵舎太平洋支所」と改名され、教育と更生に力点が置かれるようになった。受刑者は、軍事訓練、矯正教育、職業補導などを受けた上、刑期満了後は、多くは軍務に復帰した。処遇は開放的で、夜間は監房に収容されるが、昼間は各自の仕事、授業、レクリエーションで時間を過ごした。規律違反の場合は、独房に収監されたり鎖につながれたりした。しかし、立地上、島内への水と食糧の供給に費用がかかったため、1930年代初頭の大恐慌もあって、アメリカ軍は1933年、アルカトラズ島の刑務所を閉鎖することとなった。
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