軍事航空
軍事・航空
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 23:15 UTC 版)
1916年、現在の茨城県土浦市および阿見町の湖畔一帯に、大日本帝国海軍の航空施設が建設され、霞ヶ浦は日本の近代軍事史、および航空史上において重要な役割を担うこととなる。 その後の飛行船や航空機といった航空技術の向上とともに、航空戦力の重要性は高まり、規模は次第に拡張され霞ヶ浦海軍航空隊が設置された。軍事施設の周囲は、霞ヶ浦の水域を含めて立ち入り禁止とされていたが、取り締まりの危険を冒して漁をする住民もいた。 1929年8月19日には、当時世界最大の飛行船だったドイツのツェッペリン伯号が世界一周中に霞ヶ浦航空隊に寄航。このときは、上野から土浦への臨時列車が運行されるなど東京からも見物客が押し寄せ、観衆は30万人に及び「君はツェッペリンを見たか!」という新聞の見出しが流行語になったと言われている。この当時、霞ヶ浦航空隊には第一次世界大戦・ヴェルサイユ条約に基づくドイツからの戦利品である飛行船用の巨大格納庫 があり、湖畔にあるため見晴らしがよく、風も穏やかで航行の条件がよかったことから寄港地として選定されたという。この格納庫は戦後解体されたが、飛行船飛来記念碑の東南東にあった。 また、1931年8月には、大西洋単独無着陸飛行をはじめて成し遂げたチャールズ・リンドバーグ夫妻が北太平洋航路調査のため来日。26日に霞ヶ浦を訪れた。土浦市史によれば、このころの霞ヶ浦は、外国機が次々と飛来し「世界的空港」と謳われていたとされる。 一方、霞ヶ浦航空隊は日本最大の航空戦力の施設として発展し、予科練の訓練学校も設置された。太平洋戦争開戦のころには、陸軍で云う旅団規模であり、大佐または少将が隊長に就任していた。後の連合艦隊司令長官や海軍次官となる山本五十六が、大佐時代に航空隊の副長や航空学校教頭であったことでも知られており、現在でもそれにちなんだ銅像がある。 終戦後、軍事施設の面積は縮小され、その跡には陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地(および関東補給処、航空学校霞ヶ浦校)や土浦駐屯地(および武器学校)がある。
※この「軍事・航空」の解説は、「霞ヶ浦の歴史」の解説の一部です。
「軍事・航空」を含む「霞ヶ浦の歴史」の記事については、「霞ヶ浦の歴史」の概要を参照ください。
- 軍事・航空のページへのリンク