路線を東海道へ変更、完成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:39 UTC 版)
原口と南に任せた東海道測量が11月に仕上がると直ちに着工、原口・南・国沢・飯田・長谷川など腹心達を揃えて工事を進め、明治20年(1887年)7月に横浜 - 国府津駅が{要出典|date=2022年6月}}、そこから西の山北駅 - 御殿場駅間を阻む箱根の峠越えには苦戦したが、トンネル掘りの玄人・南一郎平が力を尽くしたおかげで開削し、山北 - 御殿場 - 沼津駅 - 静岡駅まで線路が繋がった[要出典]。以後も西へ工事を延長、同年5月から翌明治21年9月まで豊橋駅 - 大府駅が開通、富士川・大井川・天竜川にも鉄橋を架け、明治22年(1889年)2月1日に静岡駅で開業式が行われ、4月16日に横浜 - 大府間が開通した。そして7月1日に大津 - 長浜間も開通し東海道本線(397.4km)が全線開通した[要出典]。 16日に勝は伊藤になり代わった黒田清隆首相に東海道線開通を報告、19年前の事業開始からの苦心談や開通の喜び、部下達の功労を称えた内容を書き送った[要出典]。また、外務大臣に着任した大隈重信にも書簡を寄せ、鉄道敷設を決定した大隈と伊藤を褒め称えた。東海道線開通で勝は勲一等に叙せられ瑞宝章を受け、また明治20年に叙せられた子爵の身分により明治23年(1890年)7月10日に貴族院議員に選ばれており、鉄道局が9月6日に鉄道庁と改称され内務省管轄に移管されると初代鉄道庁長官に就任した。鉄道敷設に燃やす意欲は衰えず、1度は挫折した横川 - 軽井沢間に線路を通すため仙石貢・松本荘一郎・本間英一郎や#シャービントンらの力を借り、明治24年(1891年)に着工し翌明治25年(1892年)12月に終えた。 東海道線完成後は日本鉄道会社の監督・指揮を行い東京 - 青森間の開通に尽力、第1区線(東京 - 高崎)から延伸する大宮駅 - 白河駅の第2区線を明治18年1月5日から明治20年7月16日の2年で完了、白河 - 仙台駅に伸びる第3区線も明治19年8月から明治20年12月15日に完成させた。その後も北進を続け第4区線の仙台 - 盛岡駅は明治23年11月1日に、最後の第5区線(盛岡 - 青森)は明治24年9月1日に繋がり、現在の東北本線も全線開通させ、鉄道庁長官として鉄道事業の発展に尽力した。
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