起訴前弁護
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1981年(昭和56年)12月の輿掛の暴行事件の弁護を担当した古田邦夫弁護士は、その後も輿掛のことが気になっていた。暴行事件については、もともとは輿掛の勤務するホテルの労働組合から依頼を受けた事務所の先輩弁護士の都合で代わって対応しただけのものではあったが、みどり荘事件を追及するための別件逮捕と感じた古田弁護士は、違法捜査を止めるためにとにかく輿掛を早く釈放させることを優先して1週間での釈放を実現していた。その際に輿掛から、みどり荘事件について「やっていない」と聞いていただけに、輿掛逮捕の報道に接して「別件とはいえ一度弁護をした者として会いに行くべきではないか」と考えていた。逮捕の翌々日の1982年(昭和57年)1月16日、古田弁護士は、まだ本人からも家族からも依頼されていなかったが、「弁護人となろうとする者」として自白前の輿掛と面会した。そこでも再度「やっていない」という輿掛の言葉を確認し、金銭面から「うん」と言わない輿掛に、とりあえず弁護人選任届を書くだけ書かせて、その日の面会を終えた。 当時の古田弁護士は登録2年目で、否認している輿掛の刑事弁護を一人で担う自信はなかった。事務所で相談したところ「外部の弁護士と組んだ方が良い」という結論になり、1月18日に改めて外部の先輩弁護士とともに輿掛と接見した。しかし、その場で輿掛から出たのは、家族との面会と引き換えに「たった今、隣の部屋にいたと認めた」という言葉であった。先輩弁護士には否認事件として協力を依頼した手前もあって、古田弁護士は接見を短く切り上げ、二人で弁護にあたるという話も立ち消えになった。古田弁護士は、1月20日・1月22日にも輿掛と接見したが、否認事件でなくなった以上、家族の経済的な負担を考えても国選弁護にしたほうが良いのではないかと考え始めていた。 1月23日、大分地方裁判所の弁護士控室で、古田弁護士は徳田靖之弁護士から声を掛けられた。徳田弁護士は、古田弁護士の小・中・高校の8年先輩にあたり、司法修習生時代から親しくしていた。みどり荘事件について聞かれた古田弁護士は、率直に国選弁護にすべきか悩んでいると答えた。しかし、徳田弁護士の考えは違った。被疑者は自閉症との報道もあり、事件の経緯からは異常酩酊の可能性もあるので、責任能力の有無で争うことになる可能性もあり、起訴前の弁護活動を続けるべきだ、というものであった。そして徳田弁護士は、自分が一緒に弁護人になっても良い、と申し出た。こうして二人は1月25日に輿掛の長姉に会って着手金を受け取り、正式に家族の依頼による輿掛の弁護人となった。しかし、徳田弁護士が起訴前に輿掛と接見したのは1月27日と1月29日の2回だけだった。 前述の通り、輿掛は1月30日から3月10日まで精神鑑定のために鑑定留置に出された。これには、異常酩酊による心神喪失ないし心神耗弱を推定していた弁護側としても異論はなかった。鑑定結果は「精神障害や健忘は存在しない」であったが、3月10日に接見した古田弁護士は、鑑定から戻った輿掛から驚くべき話を聞く。「注射をされて尋問された」というのである。古田弁護士は直ちに徳田弁護士に相談して「鑑定留置先で自白誘導剤が使われた可能性があり、その影響が残っている状況下での取り調べは問題があるから至急留置場所を拘置所に移すように」と大分地裁に上申した。これが認められ、3月13日に輿掛は大分警察署内の留置場から拘置所に移送された。
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