資治通鑑と通鑑綱目
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「三国志演義の成立史」の記事における「資治通鑑と通鑑綱目」の解説
庶民レベルでの説三分の隆盛と並行して、知識人の間でも宋代には三国時代の正統論について興味深い動きが見られた。当時、三国のどの国が正統かを論ずる正閏論が盛んとなる。碩学として知られた北宋の司馬光は編年体の史書『資治通鑑』(以下、『通鑑』)において魏正統論の立場で叙述した。欧陽脩(『明正統論』)・蘇東坡(『正統弁論』)らも同様である。しかし南宋時代の朱熹(朱子)は『資治通鑑綱目』(以下、『綱目』)において司馬光を激しく批判。三国時代の記述に魏ではなく蜀の年号を用いるなど、蜀を正統王朝と見なし、特に諸葛亮を「義によって国家形成を目指した唯一の人物」と礼賛した。それ以前に蜀正統論を強烈に主張していたのは東晋の習鑿歯であるが、漢人知識層にとって東晋や南宋は、ともに異民族に華北を奪われ江南に後退を余儀なくされた屈辱の時代であり、それゆえ類似した状況にあった蜀への共感が高まったとの指摘がある。朱子の理論を基盤とする朱子学(宋学)は明代に至り、国家公認の学問となった。すなわち『演義』が完成した時代には、朱子の歴史観(=蜀漢正統論)は公式なものとなっていたのである。 『通鑑』と『綱目』は歴史観のみならず、『演義』の文章にも大きな影響を与えている。『通鑑』は正史をはじめとした様々な史書から抜き書きし、編年体の体裁にまとめた書物であり、『綱目』はさらにそれをダイジェスト化した書である。そのため、歴史の流れを把握する上で、重要人物の記載が各伝に散らばっている正史(『後漢書』『三国志』『晋書』)を直に読むより、はるかに参照しやすくなっている。『演義』の作者・校訂者は、直接正史を参照する以外にも、『通鑑』や『綱目』を参考にして書いたとみられる箇所が散見される。また朱熹と同時代の学者で『近思録』の共著者でもある呂祖謙が記した正史のダイジェストである『十七史詳節』も参照に便利であったと思われ、『演義』刊本の中には、董卓が死亡した箇所の論賛などに「已上、詳節に見ゆ」と『十七史詳節』からの引用を明記してあるものもある。
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