財宝探検と二度目の航海
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:24 UTC 版)
「ウィリアム・フィップス」の記事における「財宝探検と二度目の航海」の解説
1682年、フィップスは財宝探しを始め、レソリューション号の船長として、沈没したスペイン船の財宝を探すべくバハマに旅立った。一部の文献では、初期の財宝探しは失敗に終わったと述べられているが、この財宝さがしが利益をもたらしたことは明らかで、フィップスは参加した者たちと54ポンドを分け合い、イギリス本国の植民地代表部にいたエドワード・ランドルフは、1683年に、フィップスの「最近の大きな収益」について書いている。 最初の宝探しの成功により、フィップスはイングランドに渡って、さらなる宝探しを援助してくれるスポンサーを探すことにした。そこで彼は血縁関係のおかげで、イングランド海軍海軍委員会の委員で少将でもあるサー・ジョン・ナルバラに紹介された。ナルバラは国王チャールズ2世の側近で、彼と関係を持つことによりフィップスの野望は実を結んだ。1683年6月、海軍本部は20門フリゲート艦「ローズ・オブ・アルジェ」を調達して、フィップスに宝探しのために貸与することで合意した。チャールズ2世は、国王への10パーセントの配当に加えて25パーセントの配当を得、2人の代表部の職員、チャールズ・サーモンとジョン・ネップにも配当を与え、この船が財宝探し目的のものであることを保証した。 1683年9月、フィップスはロンドンを発ってそれから2年を宝探しに費やした。出だしは順調とは行かず、フィップスは物資がたった一月分しかなかったため、リムリックに向かって物資を補充することに決めた。彼とネップは早くから気が合わなかった。ネップは、通常の海軍の船のように乗組員を訓練しようとしたが、フィップスは多少の規則違反にはゆるかった 。フィップスは10月にボストンに着いて、そこでさらに機材と物資、そして経験を積んだ潜水夫を探そうとした。偶然にも時を同じくして、2隻目の、ウィリアム・ウォーレンの「グッド・インテント」が、フィップスが目指しているカリブ海のとある地域に出かける準備をしていた。ウォーレンの航海を阻止するべく、マサチューセッツ当局を説得するも失敗に終わり、フィップスはウォーレンの誘いに乗った。潜水夫と物資の見返りとして、ウォーレンと仲間たちは、フィップスの収益の分け前をもらったと思われる。 フィップスは1683年ボストンを出航した。最初にあまり財宝発見の確率が高くないジャマイカ沖を捜し、引き上げられた難破船から200ポンド相当の財宝を見つけた。これに乗組員の何人かが反抗したため、フィップスは彼らをジャマイカに待たせ、新たに先導役を集めて、より可能性のある場所へと向かった。先導役について、フィップスはヒスパニオラ沖を捜したが、あまり大したことはなかった。結局1685年にロンドンに戻ったが、会計の上ではこの航海は損失だった。それぞれの分け前は小さく、王室は船の調達に700ポンドを使い、受け取ったのは471ポンドだった。帰りの航海はバミューダで足止めを食らって混乱したものの、フィップスは、ヘンリー・ビッシュをここからイングランドまで護送するのに同意した。ビッシュはバミューダ総督リチャード・コーニーの政敵で、コーニーに逮捕された人物だった。イングランドに着いた時、ビッシュはフィップスを逮捕させた(意に反してイングランドまで護送したということだった)が、チャールズ2世のとりなしで釈放に至った。
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