平安宮跡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 文化 > 国指定文化財等データベース > 平安宮跡の意味・解説 

平安宮跡
内裏跡
豊楽院跡

名称: 平安宮跡
 内裏跡
 豊楽院跡
ふりがな へいあんきゅうせき
 だいりあと
 ぶらくいんあと
種別 史跡
種別2:
都道府県 京都府
市区町村 京都市中京区上京区
管理団体
指定年月日 1990.02.22(平成2.02.22)
指定基準 史2
特別指定年月日
追加指定年月日 平成20.07.28
解説文: 平安宮平安京北部朱雀大路正面にあり、東西八町南北一〇町の地を占めている。平安宮正門である朱雀門中に入ると、正面国家正式な儀式を行う朝堂院がある。朝堂院西側には、朝堂院とよく似た構成の院がもうひとつ並んでいる。ここを豊楽院といい、豊楽院天皇公的に宴会する所であり、大嘗会や、正月七日一六日節会などの〓(*1)宴や射礼などが行われた場所であった。豊
 楽院内には、周囲築地囲まれ細長い内郭の北に正殿である豊楽殿南面して建つ。
 昭和六十二年十月から昭和六十三年一月にかけての発掘調査(約四五平方メートル)で豊楽院正殿である豊楽殿遺構発見された。遺構は、豊楽殿北辺中央から西側にかけての部分で、その検出遺構は壇正積基壇跡・階段跡・礎石抜き取り跡・北廊跡・地鎮跡等である。
 豊楽殿凝灰岩正積基壇の上に建つ礎石建物で、桁行九間(一三一尺)、梁行四間五四尺)、四面廂付の東西棟である。柱間寸法身舎桁行一五尺、梁行一四尺等間、廂は桁行梁行とも一三尺であり、軒の出は一五尺と推定される基壇残存状態は良好で、礎石残っていないがその据付位置確認できた。礎石据付跡は一辺二・二メートルから二・四メートル方形である。階段基壇北辺部の中央間と中央間から西へ三間目で検出された。中央階段は、九世紀のある段階壊され豊楽殿後方清暑堂連なる北廊の基壇造られている。この北廊西側からは、地鎮用いた考えられる土壙検出した土壙の中から三足盤を含む土器三点出土している。
 以上のように、平安宮豊楽殿跡は平安宮中心部構成する建物跡であり、さらに平安宮跡内の朝堂院豊楽院中心部分の建物の中で遺構を現在確認しているのは豊楽殿のみである。豊楽殿跡の遺構は、豊楽院大極殿研究にも重要な資料提供するものであり、その学術的価値極めて高い。よって、史跡指定し、その保存図ろうとするものである

S54-12-031[[平安宮内裏内郭回廊跡]へいあんきゅうだいりないかくかいろうあと].txt: 平安宮は、延暦13年(794)からはじまり、わが国古代宮殿のなかで、もっとも長く維持経営されたところであって、その遺跡はすべて、京都市街地埋もれている。
 平安宮跡の発掘調査昭和30年代から本格的にはじめられ38年44年48年調査により回廊跡が検出された。遺構凝灰岩壇上基壇東西幅約12メートル南北27メートル連続することが確認され年中行事絵巻等によって、天皇日常居住空間政治の場である内裏特有な[[築地]ついじ]回廊西側基壇であることも判明した
 築地回廊は、築地大屋根載せ回廊内と外とに区分し晴雨かかわらず衛士巡回できるようにした厳重な囲壁である。他の遺跡では、今までに、平城宮跡長岡宮跡発掘され、この築地回廊跡の発見により、内裏であると断定する証拠となった重要な遺構である。
 平安宮跡は、京都市街重なり町家建て替えに際して多数発掘調査実施されてきたが、近世初頭豊臣秀吉による聚楽第建設およびその破却による攪乱激しいなかで、当該部分遺構残存状況がもっと良好である。

延暦13年(794)に桓武天皇により長岡京から遷都された平安京北辺中央位置する我が国最後都城跡。既指定平安宮豊楽殿跡の北側で、清暑堂跡、及び豊楽殿との間を繋ぐ廊跡が発見されたため、既指定平安宮内裏内郭回廊跡と一体で保護を図る。
史跡名勝記念物のほかの用語一覧
史跡:  平出遺跡  平城京朱雀大路跡  平塚川添遺跡  平安宮跡  平川廃寺跡  平戸和蘭商館跡  平林城跡



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「平安宮跡」の関連用語

1
38% |||||

2
12% |||||

平安宮跡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



平安宮跡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
文化庁文化庁
Copyright (c) 1997-2024 The Agency for Cultural Affairs, All Rights Reserved.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS