詠物賦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 15:30 UTC 版)
紀元前130年~100年の間、武帝は一連の軍事行動と侵略によって漢の領域を中央アジア、ベトナム北部から朝鮮半島まで急速に拡大する。領土の広がりに伴って、外国からおびただしい数の動植物や物品・珍品が長安の都に持ち込まれ、こうした目新しい事物を詠み込み記録する詠物賦が漢代を通じて官僚や詩人の間に流行した。詠物賦は賦文学の主流となり、膨大な器具や事物・事象を網羅した。西晋以降に類書が登場するまで、賦は百科事典としての役割も担っていた。また漢代には賦を頌とも言い、地大物博を誇るための国ぼめの手段としても用いられた。 中国史上最大の女流詩人として知られる班昭は後漢の和帝のころに「大雀賦」を遺しており、これは110年ごろパルティアから漢の宮廷に持ち込まれたダチョウを詠んだものとされている。学者の馬融は古代のボードゲームにまつわる賦を2つ作っている。「樗蒲賦」は老子が西域へ旅立った後に発明したとされる樗蒲を描き、また「囲棋賦」は囲碁に関する最初期の記述である。後漢の司書王逸は、『楚辞』の諸本の1つ『楚辞章句』の編者として最も有名であるが、2世紀初頭の詠物賦の作家でもある。「茘枝賦」はライチを詩に読んだ最初の作品とされている。 曹操の詩壇では、建安の七子として知られる詩人たちがそれぞれに賦を作り、詠物賦の名作の数々を生み出した。曹操がたぐいまれな品質の大きな瑪瑙を与えられ、これを頭絡に仕立てた際には、詩人らは各々「瑪瑙勒賦」を作った。 曹操の宮廷で作られた詠物賦としては、西域のインド周辺のサンゴや貝の素材から作られた椀を詠んだ「車渠椀賦」もある。 束晳の賦は中国の食物史によく知られるところである。彼の「餅賦」は、麺・饅頭・餃子などの当時はまだ伝統的な中華料理とは言えなかった粉物料理を網羅的に記述している。西晋の文学者・傅咸の「紙賦」は、150年ほど前に発明された紙についての初期の記録である。
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