高野街道
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高野街道(こうやかいどう)とは、かつて京・大坂から高野山への参詣道として用いられた街道で、主に大阪府河内長野市から和歌山県橋本市の間を指す。
- ^ 空海が弘仁年間(9世紀初頭)、京師東寺より野山の守護神へ参拝する途上、天見村で夜が明けたとき、詠んだとされる句。「暗かりし道も天見の里なれば明りの木こそ、地(つち)にいれなん。」, 暁 晴翁「雲錦随筆」吉川弘文館(日本随筆大成 巻2)、1927年(原作は1861年(文久元年)),124頁より。
- ^ 『烏帽子形城跡』河内長野市教育委員会
- ^ 高野街道~いにしえのみち復活プロジェクト~ 全体計画図 (PDF)
- ^ Googleマップ 国道310号、国道371号旧道を高野街道と指定しているが、本来の旧街道の方には記載がない。
- ^ 『高野街道まつりの廃止について』(プレスリリース)河内長野市公式サイト、2023年5月24日 。2024年2月22日閲覧。
西高野街道
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西高野街道は、大阪府堺市を起点とし、河内長野で東高野街道と合流し、高野街道となる。 江戸時代には、京都から船で淀川を下り、大坂(現、大阪)へ行き、堺から西高野街道を通り高野山へ向かう参詣者が増えた。また、摂津国一之宮 住吉大社を参拝してから高野山を目指す参詣者にも好まれ利用された。そのため、参詣者の利便性向上のため、幕末の1857年(安政4年)に、堺・大小路を起点とし、高野山女人堂までの里数を刻んだ高さ約150cm、幅約24cmの道標石が1里ごとに建てられ、現在も、高野町の神谷の1里道標石から堺市榎本町の13里道標石まで、1里ごとに13基すべての道標石が現存している。また、商港として栄えた堺から高野山方面への米・酒・綿などの物資輸送でもにぎわった。
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西高野街道
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平安時代後期から鎌倉時代初期には高野参詣道として使用されていたと考えられている。室町時代から江戸時代には、商港堺と高野山との物資輸送でにぎわった。旧街道は現在の国道310号に沿っている。元和の町割以降の堺においては、目口筋あるいは一筋北の大小路と接続していた。
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