西太平洋での活動
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「ジェイソン (工作艦)」の記事における「西太平洋での活動」の解説
1965年1月4日にサンディエゴを出たジェイソンは25日に横須賀へ到着、日本と沖縄での活動後に3月6日スービック湾へ入港、8月31日に母港へ戻るまで第7艦隊の艦艇と行動した。ジェイソンはカリフォルニア州南部の諸港で行動後に1966年3月4日にワシントン州ブレマートンでオーバーホールを行った。 オーバーホール完了後の6月6日、引き続き西海岸で行動してから1967年1月9日に西太平洋へ向かった。その後は8月19日にサンディエゴへ戻るまで佐世保とスービック湾で第7艦隊の艦艇と活動した。 1974年頃にジェイソンの5インチ主砲は撤去され非戦闘艦艇となったため、女性乗員の勤務が認められることになった。 サンディエゴを母港としていた1980年10月、ジェイソンと乗員たちはイランアメリカ大使館人質事件の対応を支援するため西太平洋とインド洋巡航を行った。ジェイソンの乗員はおおよそ男性800名と女性45名から構成されていた。1ヶ月間の横須賀での修理任務、スービック湾での感謝祭の停泊、 虫垂炎を発症した乗員の手術のためのごく短期間のシンガポール寄港を経て、ジェイソンはインド洋へ入った。そこでジェイソンはソ連の軍艦とタンカー各1隻、商船2隻と遭遇し、それから間もなく潜水艦1隻も確認した。 ディエゴガルシア島の湾の中央に停泊したジェイソンは浮かぶ埠頭の役目を果たし、水上艦艇と潜水艦双方を修理し続けた。ジェイソンはその後すぐにサンディエゴに戻り、1981年2月27日に西オーストラリア州のフリーマントルに立ち寄り、パースでの4日間のR&R(英語版)と真珠湾での補給を行った。 それから間もなく、乗員はジェイソンの母港が真珠湾に変更される知らせを受けた。ジェイソンは駆逐艦母艦ブライス・キャニオン(英語版)(USS Bryce Canyon, AD-36)から母艦任務を引き継ぐことになり、ジェイソンの艦長もジョンソン大佐からブライス・キャニオンの艦長であったマーティン大佐に交代した。真珠湾にいる間、ジェイソンは数百万ドルを費やしてオーバーホールを実施した。1983年に西太平洋地域へ向かったジェイソンは、日本の横須賀と佐世保、フィリピンのスービック海軍基地、そして韓国の釜山を巡った。 1986年2月10日、ジェイソンは真珠湾の南西100km海上で艦隊給油艦ウィラメッテ(英語版)(USS Willamette, AO-180)に衝突された。ジェイソンがウィラメッテを中心とする陣形を横切ってウィラメッテの後部に陣取ろうとした際に起きた事故であった。ジェイソンの乗員1名が死亡し、8名が負傷した。ジェイソンの左舷には甲板から水線部へ垂直に広がる大きな亀裂が入り、曳航救難艦(英語版)ブランズウィック(英語版)(USS Brunswick, ATS-3)に曳航されて港に戻らざるを得なかった。衝突事故の責任を問われ、両艦の艦長は解任されることになった。修理後にジェイソンは新たな母港であるサンディエゴへ移動した。ジェイソンはこの時までに、海軍の在籍艦艇で最も叙勲された艦となっていた。 1990年1月、ジェイソンがディエゴガルシア沿岸を航行中だった際に赤い人工衛星に似た未確認飛行物体の目撃騒ぎが発生した。
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