西太后の庇護とは? わかりやすく解説

西太后の庇護

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:21 UTC 版)

岑春煊」の記事における「西太后の庇護」の解説

1885年光緒11年)に乙未科挙人となる1889年光緒15年)に五品京堂候補1892年光緒18年)には光禄寺少卿に任命された。まもなく太僕寺少卿に異動している。1894年光緒20年)、日清戦争勃発すると、欽差大臣劉坤一任用され、山東省黄県駐在した1898年光緒24年8月広東布政使任命された。さらに甘粛布政使異動する1900年光緒26年)の義和団の乱では、蘭州から軍勢率いて北京出動する。このとき、列強追われ西太后光緒帝護衛した。この功により岑春煊陝西巡撫昇進している。 1901年光緒27年)、山西巡撫着任列強との交渉担当した翌年には広東巡撫への異動命じられたが、実際に赴任せず四川総督へと昇進した1903年光緒29年)、署両広総督兼督弁広西軍務に就任翌年には粤海関監督兼任するようになった西太后信任得て昇官した岑春煊だったが、それが原因慶親王や、それと親し袁世凱対立するうになる。袁との対立関係民国時代にも影響及ぼした1906年光緒32年)、慶親王袁世凱策動により、岑春煊雲貴総督への異動命じられた。岑は発展した両広を離れることを望まず、療養理由にこれを拒否した1907年光緒33年3月、さらに四川総督再任された。しかし岑は入京して西太后の庇護を得てその人事を拒否郵伝尚書改め任命された。6月、岑は再び両広総督任命され任地向かった。ところがその途中で慶親王と袁の謀略により岑は解任されてしまう。解任された岑は上海留まり情勢変化待った

※この「西太后の庇護」の解説は、「岑春煊」の解説の一部です。
「西太后の庇護」を含む「岑春煊」の記事については、「岑春煊」の概要を参照ください。

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