西太后の名前について
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「西太后」とはもともと咸豊帝の第2夫人であった「東太后」(慈安皇太后)と対になる名称である。皇帝との間に男子を産んだ西太后に対し、東太后は皇帝の正室となったが男子(世継ぎ)を産むことがかなわなかった。それでも儒教の論理や明の洪武帝の祖法のしきたりにより東太后は次期皇帝の嫡母となることが決められており、西太后自身は生涯において皇后になることは出来なかった。咸豊帝崩御に伴い同治帝が即位すると、皇后は皇太后として「東太后」となり、同治帝を産んだ生母も皇太后となり「西太后」と呼ばれるようになったのである。 幼名は「蘭児」で、数え18歳で後宮に入ると「蘭貴人」となり、のちに徽号を「懿」に変えた。昇進するにつれ懿貴人から懿嬪、そして男子誕生により「懿貴妃(nesuken guifei)」となった。咸豊帝崩御後は「慈禧皇太后」となったが、当時のしきたりではめでたいことや吉兆があるたびに二文字追加されるため、息子(同治帝)の結婚により「端佑」が追加され「慈禧端佑皇太后(jilan hūturi tob karmangga hūwang taiheo)」となり、同治帝の親政開始で「康頤」が加えられ、その後も吉事の度に二文字ずつ追加されて最終的な諡号は「孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇熙配天興聖顕皇后」となった。 近年西太后の弟桂祥(グイシャン)の曾孫を名乗る那根正(近年では葉赫那拉根正と名乗る)が『我所知道的慈禧皇太后』(中国書店、2007年)で西太后の本名は杏貞、隆裕太后の本名は静芬であるという説を提唱してから広まったが、那根正の語る話には矛盾が多く、信憑性には疑問が残る。 那根正は自分の祖父を桂祥の息子増錫(原名徳錫)であるとしているが、桂祥の息子で確認されているのは徳恒、徳祺の2人で、徳錫という人物は確認できない。 那根正は『我所知道的末代皇后隆裕』(中国書店、2008年)で桂祥の没年について1928年としているが(63頁)、実際には桂祥は娘の隆裕太后が死去した同年の1913年12月に死去しており、史実と一致しない。『宣統年交旨档』(全国図書館文献縮微複製中心、2004年)宣統五年十一月十八日(1913年12月15日)諭旨によると、(419頁)、死去した桂祥のために清室から五千両が下賜され、長子徳恒を頭等侍衛、乾清門行走とし、次子徳祺を侍衛として用いたとある。 那根正は、清代の著名な詩人で葉赫那拉氏の納蘭性徳の九世孫(または納蘭性徳の近親の子孫)で、かつ西太后の弟桂祥の曽孫を自称している。納蘭性徳は最後の葉赫部領主金台石の曽孫で、金台石の子孫は正黄旗に編入された。一方西太后の一族は同じ葉赫那拉氏であっても鑲藍旗に編入され、西太后の時代に抬旗されて鑲黄旗に移っている。西太后の祖先喀山はヌルハチが葉赫部を滅ぼす以前にヌルハチに服属しており、葉赫部領主金台石の子孫ではなく、納蘭性徳の系統とは全く別の系統に属する。そのため那根正が主張する、那蘭性徳の九世孫で、かつ西太后の弟桂祥の曽孫というのは成り立たない。 以上のような理由で、中国の研究者の間では、那根正の出自に対しても疑問が呈せられている。
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