西太后の名前についてとは? わかりやすく解説

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西太后の名前について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 14:00 UTC 版)

西太后」の記事における「西太后の名前について」の解説

西太后」とはもともと咸豊帝の第2夫人であった東太后」(慈安皇太后)と対になる名称である。皇帝との間に男子産んだ西太后対し東太后皇帝正室となった男子世継ぎ)を産むことがかなわなかった。それでも儒教論理や明の洪武帝祖法しきたりにより東太后次期皇帝嫡母となることが決められており、西太后自身生涯において皇后になることは出来なかった。咸豊帝崩御に伴い同治帝即位すると、皇后皇太后として「東太后」となり、同治帝産んだ生母皇太后となり「西太后」と呼ばれるようになったのである幼名は「児」で、数え18歳後宮に入ると「貴人」となり、のちに徽号を「懿」に変えた昇進するにつれ懿貴人から懿嬪、そして男子誕生により「懿貴妃(nesuken guifei)」となった咸豊帝崩御後は「慈禧皇太后となったが、当時しきたりではめでたいこと吉兆があるたびに二文字追加されるため、息子同治帝)の結婚により「端佑」が追加され「慈禧端佑皇太后(jilan hūturi tob karmangga hūwang taiheo)」となり、同治帝親政開始で「康頤」が加えられその後吉事の度に二文字ずつ追加され最終的な諡号は「孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇熙配天興聖顕皇后となった近年西太后の弟桂祥(グイシャン)の曾孫名乗る那根正(近年では葉赫那拉根正と名乗る)が『我所知道的慈禧皇太后』(中国書店、2007年)で西太后本名貞、隆裕太后本名静芬であるという説を提唱してから広まったが、那根正の語る話には矛盾多く信憑性には疑問が残る。 那根正は自分祖父桂祥息子増錫(原名徳錫)であるとしているが、桂祥息子確認されているのは徳恒、徳祺の2人で、徳錫という人物確認できない。 那根正は『我所知道的末代皇后隆裕』(中国書店、2008年)で桂祥没年について1928年としているが(63頁)、実際に桂祥は娘の隆裕太后死去した同年1913年12月死去しており、史実一致しない。『宣統年交旨档』(全国図書館文献縮微複製中心2004年宣統五年十一月十八日(1913年12月15日諭旨によると、(419頁)、死去した桂祥のために清室から五千両が下賜され長子徳恒を頭等侍衛、乾清門行走とし、次子徳祺を侍衛として用いたとある。 那根正は、清代著名な詩人葉赫那拉氏納蘭性徳九世孫(または納蘭性徳近親の子孫)で、かつ西太后の弟桂祥曽孫自称している。納蘭性徳最後部領金台石の曽孫で、金台の子孫は正黄旗編入された。一方西太后一族は同じ葉赫那拉氏であっても旗に編入され西太后時代に抬旗されて鑲黄旗移っている。西太后祖先喀山はヌルハチ赫部を滅ぼす以前ヌルハチ服属しており、部領金台の子ではなく納蘭性徳系統とは全く別の系統属する。そのため那根正が主張する、那性徳の九世孫で、かつ西太后の弟桂祥曽孫というのは成り立たない。 以上のような理由で、中国研究者の間では、那根正の出自に対して疑問呈せられている。

※この「西太后の名前について」の解説は、「西太后」の解説の一部です。
「西太后の名前について」を含む「西太后」の記事については、「西太后」の概要を参照ください。

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