桂祥とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 桂祥の意味・解説 

桂祥

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/18 09:07 UTC 版)

桂祥(グイシャン、1849年 - 1914年1月10日)は清朝の外戚。西太后の弟であり、隆裕太后の父、同治帝の叔父、光緒帝の叔父であり義父でもある。三等承恩公の爵位を有していた。氏族は葉赫那拉氏で、満洲鑲藍旗(のちに満洲鑲黄旗に昇格)所属。

生涯

同治13年(1874年)に乾清門侍衛に任じられ、光緒10年(1884年)には副都統の名誉称号を加えられ、光緒12年(1886年)には御前侍衛および鑲白旗漢軍副都統に就任した。

光緒14年(1888年)10月5日、長女・那拉氏が光緒帝の皇后に選ばれた。

同年10月己亥の日に、桂祥は三等承恩公に昇爵し、正紅旗護軍統領、正黄旗護軍統領などを歴任した。光緒15年(1889年)には侍郎候補となり、光緒16年(1890年)12月には工部右侍郎・豊烈が盛京兵部侍郎に転任すると、桂祥は工部右侍郎に任命され、兼ねて銭法堂の事務および右翼前鋒統領を管轄した。

光緒17年(1891年)には鑲黄旗蒙古副都統に、光緒18年(1892年)には神機営の事務を管理することとなり、光緒20年(1894年)には八分輔国公の称号が加えられ、鑲白旗漢軍都統、神機営の馬歩各営の統率を担当し、山海関に駐屯、後に薊州に移された。光緒22年(1896年)には南苑に駐屯し、光緒23年(1897年)には崇文門副監督に任じられた。光緒26年(1900年)には内大臣となった。

光緒28年4月(1902年)、承恩公桂祥と輔国公載卓が健銳営の事務管理を命じられた。その後、梁格荘に駐在する御前侍衛となり、宣統元年(1909年)には八分輔国公の双俸(俸禄を倍額で支給)を賜った。

中華民国2年(1913年)1月6日付の『政府公報』には、「載功、景沣、貢桑諾爾布、色楞額、魁斌、溥倫、桂祥、博迪蘇が年番旗務の管理を命じられる」と記載された。当時、載功は鑲黄旗蒙古都統、景沣は正黄旗蒙古都統、貢桑諾爾布は正白旗満洲都統、色楞額は正紅旗漢軍都統、魁斌は鑲白旗満洲都統、溥倫は鑲紅旗満洲都統、桂祥は正藍旗満洲都統、博迪蘇は鑲藍旗満洲都統であった。

中華民国2年12月15日(1914年1月10日)、元御前侍衛・正藍旗満洲都統・三等承恩公として逝去した。これを悼み、溥儀は陀羅経被(仏教経典を納めた経被)を賜与し、貝子の溥伒を弔問に派遣、さらに葬儀費用として銀五千両を下賜した。

家族

  • 父:惠徵
    • 兄弟:照祥、佛佑
  • 叔父:惠春
  • 嫡妻:愛新覚羅氏 - 光緒30年(1904年)に逝去。
    • 長男:徳恒
    • 次男:徳祺
    • 長女:隆裕太后(静芬) - 母は愛新覚羅氏。
    • 次女:輔国公載澤嫡福晋 - 隆裕太后より4歳年下。
    • 三女:早世
    • 四女:順承郡王訥勒赫嫡福晋 - 隆裕太后より十数歳年下。
  • 養子(義子):崔玉貴 - 西太后のお気に入りであった側近の宦官

参考資料




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  桂祥のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「桂祥」の関連用語

桂祥のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



桂祥のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの桂祥 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS