被災地の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 22:56 UTC 版)
「大久保忠増#宝永噴火と藩政」および「伊奈忠順#宝永の大噴火」も参照 現在の御殿場市から小山町(御厨地方)は最大3mに達する降下軽石(噴火初期)、降下スコリア(中期から後期)に覆われた。家屋や倉庫は倒壊または焼失し、食料の蓄えがなくなった。田畑は『焼け砂』(スコリアや火山灰など)に覆われ耕作不能になり、用水路も埋まって水の供給が絶たれ、被災地は深刻な飢饉に陥った。当時の領主・小田原藩は被災地への食料供給などの対策を実施したが、藩のレベルでは十分な救済ができないことは明らかであった。そこで藩主・大久保忠増は江戸幕府に救済を願い出た。幕府はこれを受け入れ周辺一体を一時的に幕府直轄領とし、伊奈忠順を災害対策の責任者に任じた。また、翌年閏正月7日(1708年2月28日)には被災地復興の基金「諸国高役金」として、全国の大名領や天領に対し強制的な献金(石高100石に対し金2両)の拠出を命じ、被災地救済の財源とした。江戸幕府が全国的課税を行ったのはこの時が初めてであった。しかし集められた40万両のうち被災地救済に当てられたのは16万両(『折たく柴の記』)で、残りは幕府の財政に流用された。宝永5年中に金48万8770両余、銀1貫870目余が集まり、被災地救済に支出されたのは6万2500両余とする史料もある(『蠧余一得』)。御厨地方の生産性はなかなか改善せず、約80年後の天明3年(1783年)には低い生産性に加えて天明の大飢饉が加わり、「御厨一揆」が起こった。 皮肉にも宝永大噴火の被害は世間の富士山への関心を高めた。噴火の翌年の宝永5年(1708年)には再建された御厨地方の須走村に富士参詣客が殺到し、翌年も同様の傾向が続いた。農業収入に頼れなくなった須走村では御師だけでなく百姓まで巻き込んで客引きが過熱した。だが、こうした傾向は御師の元締めである浅間神社やあくまでも農業の再建を目指す領主(幕府及びその後被災地の返還を受けた小田原藩)にとって望ましいことではなく、これを統制するために寛延2年(1749年)に既存御師12名と御師活動を行う有力百姓5名の計17名で御師株が結成され、彼らのみが御師として神職待遇を受けることが認められ、他の百姓の御師としての活動は規制された。
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