街道の規格・構造
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 19:48 UTC 版)
慶長9年(1604年)の布令には、徳川幕府2代将軍秀忠により諸国に道路をつくるべきとあり、関東・奥州や木曽路を含めてその広さを5間、一里塚は5間四方と『当代記』には記されている。その他の資料にも道幅は5間と記されているものが多くあるが、並木敷きを含むかについては街道を建設する上での疑問があり、江戸時代中期の寛政元年(1789年)に並木敷きを両側9尺以上確保した上で道幅は2間以上あればよいとの回答文書が出されている。 五街道の実態については、江戸時代末期に発行された『宿村大概帳』という現代の道路台帳に匹敵する資料に詳しく残されており、標準的な道幅はおおよそ3間から4間(5.4 - 7.2メートル)、江戸に近いところでは5間(9メートル)というところが多い。また、駿府城や浜松城の付近には道幅6 - 8間(10.8 - 14.4メートル)というところもみられ、箱根峠、宇津ノ谷峠、鈴鹿峠などの山間部では道幅2間(3.6メートル)とされている。坂道の勾配については、山道以外のところで最大10 - 13パーセント、箱根峠で最大30 - 35パーセント程度あったとの調査結果が出されている。 路面構造は、馬車が発展しなかった江戸時代において徒歩を基準としており、徳川幕府3代将軍家光の時代にあたる慶安元年(1648年)、江戸市街の「道路築方並びに浚方」に道路の補修方法について出された布令には、道路の悪いところに浅草砂に海砂を混ぜた上質砂で敷きならして中高に築き、道路の溝が停滞しないように浚うことと指示されている。このほか、運送が盛んだった伏見 - 京都間や大津 - 京都間の街道では牛車用の車道と人馬道を歩車分離の考え方で区分し、2条の輪道に花崗岩の厚板の車石を敷き並べ、牛道には砂利を敷きならした。江戸時代後期にあたる文久3年(1863年)の14代将軍家茂上洛の際には、箱根の山道を改修して丸石で舗装したという記録が残されており、現在の箱根の旧街道にも往時の石畳がよく残されている。 幕末期に来日したイギリス駐日公使オールコックは、東海道を指して道路の整備状況について、道幅が広く平坦で、十分に砕石で突き固められていて、両側の並木により通行者を日差しから守り、ヨーロッパの最も立派な道と比肩する大変高い価値のあるものと評価している。
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