行先表示の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 01:25 UTC 版)
戦前の京阪神緩行線では、前面に行先表示板を掲示することはなかったが、42系、51系など戦前製の車両には、車体中央部の幕板に手動の行先表示幕があり、右書き(1行1文字の縦書き)で“京都行”“神戸行”などと表示をしていた。 戦時中から戦後の混乱期にかけて、側面の行先表示幕は使われなくなり、ほとんどの車両では更新修繕などの機会にふさがれてしまった。また、戦後の混乱期には、前面に直接チョークで行先を書き込んだりしていた。 その後、世相が落ち着いてきた1949年頃から、前面に行先表示板を掲出するようになった。当初は“京都”“西明石”と単に行先を書き記したものだけであったが、1950年以降、現在でもよく知られる、紺地のホーロー板に白枠で描いた図形の中に行先を表示し、図形の下にローマ字で行先を表示した行先表示板に順次取り換えられていった。行先と図形の組み合わせは、西明石=四角、明石=ひし形、神戸=分銅型、大阪=丸、高槻=五角、京都=三角となっており、行先の文字が判別できなくても、図形を見れば行先が分かるようになっていた。また、区間運転の場合は、“吹田‐尼崎”などの区間表示式の行先表示板を掲示した。その後、1960年以降に転入してきた全金属製のクハ79形920番台など、72系で前面行先表示器が設置されていた車両についてもこれを使用せず、行先表示板の掲示を継続した。 しかし、折り返し時における表示板の交換は煩雑かつ危険を伴うものであったことから、1963年以降、“京都‐西明石”などの区間表示式の行先表示板(下部にローマ字表記あり)に変更された。 ところが、1969年に103系が投入されると、前面行先表示器は手動式であったものの“大阪”“高槻”などの行先のみの表示のほか、“京都‐甲子園口”“高槻‐西明石”などの区間表示のコマも存在するなど、各行先のコマは準備されていたにもかかわらず、どの行先においても「普通」を表示し、これらの表示幕は使用されなかった。また51・72系といった旧型車も行先表示板の掲示を取りやめ、京阪神緩行線から前面の行先表示が消えてしまった。 1974年に投入された量産冷房車では、自動式の行先表示器が前面・側面に設置されたことから行先表示を復活、1975年以降に登場した冷房改造車も含め、“大阪”“高槻”などの行先を表示した。ただし、自動式行先表示器を装備する編成でも緊急時などは「普通」表示で運行する場合があった。非冷房編成は量産冷房車の登場以降も「普通」表示のままであり、旧型車は行先表示板の掲出が復活なされないままに運行を終了した。 201・205系では前面黒地に白字、側面は白地に黒字の表示であったが、201系体質改善工事施行車の登場前後から、側面表示幕も黒地に白字に改められた。また、205系1編成が一時期LED表示の試作改造を実施されたほか、阪和線に転出していた205系が体質改善工事を施行されて一時期京阪神緩行線に戻ってきた際には、前面・側面の方向幕がLED表示に取り換えられた。現在の207・321系では行先表示と種別表示が分離されており、行先表示はLED、種別表示は幕で表示されている。
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