血の4月と敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 02:31 UTC 版)
「マンフレート・フォン・リヒトホーフェン」の記事における「血の4月と敗北」の解説
1917年4月アメリカが参戦し皇帝ヴィルヘルム2世は戦争の先行きに憂慮を深めた。その様な中、リヒトホーフェンは騎兵大尉に昇進した。また、ドイツ空軍部隊では漸く優秀な飛行機設計と大量生産計画が結実し、優秀な戦闘機が大量に前線に配置された。このため、ドイツ軍対連合軍の損害比は1:4にまで拡大した。それでもイギリス軍は、新型機が投入されるまでの数ヶ月の間、速度や運動性能に劣る在来のBE機やFE機での苦しい戦いを継続したため空前絶後の損害を出した(このためイギリスでは「血の4月」と呼ぶ)。マンフレートも、このドイツ空軍の上げ潮の頂点にたち4月2日に2機撃墜したのを手始めに、4月29日に英軍クズナー中尉の最新型のソッピース トライプレーン三葉機をビイー=モンティニューとセロミーヌの間で撃墜するまで、計21機を撃墜し、公式記録を前代未聞の52機とした。この4月29日夕方には50機撃墜に対して、皇帝ヴィルヘルムII世より電話での祝賀の言葉を受けている。 1917年6月初めに、第1戦闘航空団 (Jagdgeschwader 1)指揮官に任命される。マンフレートは部下に空中戦理論を教えることで隊全体のスコアを上げている。そのため第1戦闘航空団は多くのエースを輩出し、連合軍から「フライング・サーカス」、「リヒトホーフェン・サーカス」と恐れられた。彼は自らの撃墜に関しては他の者が共同撃墜でその功績を単独で得ても「敵が撃墜されることに意義がある」として争わなかったが、部下の撃墜が他の者の功績となることに関しては「指揮官には自己へとは別の責任がある」として絶対に譲らなかった。 1917年7月6日リヒトホーフェンは戦闘中に撃墜確実の獲物として近接した英軍のヴィッカース複座戦闘機から、同機機銃手ウッドブリッジ少尉による300mからの長距離射撃を受け、頭部に長さ10センチ以上の裂傷を負い不時着した。19日間の入院の後原隊復帰したが、部隊長は彼が未だ飛行任務に耐え得ないとして飛行中止を命じた。8月16日に命令を無視して復帰した後、同16日、26日および9月2日・3日に英軍機と交戦し4機を撃墜したが、基地に帰ると激しい頭痛とめまいや吐き気に襲われた。彼は今回の敗北では精神的にも大きく打撃を受け自信を喪失した。9月3日に自ら願い出て10月23日まで生まれ故郷へ帰休した。しかし、彼の母親によると、頭の傷は口が開いたままで、「息子が懐かしい家で休息をとりたいと願ったのは当然でした。しかし休めませんでした。」という。国民的な撃墜王が一人で過ごせる時間は少なかったのである。この負傷後、自信にあふれたリヒトホーフェンは影をひそめ、目下の者にも格式ばらなくなり、ひどく打ち解けた態度を示すようになったという。この撃墜時の不時着の時のことを語った彼のことばに「真の戦闘機パイロットは死ぬまで操縦桿から手を離しはしない」がある。 10月23日原隊に復帰した。しかし、彼が片腕と信頼した第10飛行中隊のヴェルナー・フォスは戦死していた。11月23日に63機目を撃墜した。
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