著名な議長選挙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 03:10 UTC 版)
「アメリカ合衆国下院議長」の記事における「著名な議長選挙」の解説
歴史を振り返ると、1839年の議長選挙のように幾つかの議論の多い下院議長選挙が行われた。1839年の場合、議会は12月2日に招集されたが、「ブロードシール(州章)戦争」と呼ばれるニュージャージー州での選挙論争のために12月14日まで下院議長選挙を始められなかった。2つの競争関係にある議員団、1つはホイッグ党でもう1つは民主党がニュージャージー州政府の異なる部門から選出されたと証明されていた。問題は、論争の結果がホイッグ党と民主党のどちらが多数派を握るかを決めることになるために複雑だった。どちらの党も敵対する党の代表団が出席している時に下院議長の選挙を認めようとはしなかった。最終的に選挙からどちらの代表団も外すことになり、下院議長は12月17日に選出された。 また、1855年の第34議会(英語版)ではさらに長い戦いが起こった。新しい共和党はまだ十分に形成されておらず、大半が元ホイッグ党員のかなりの数の政治家が反対党のラベルで議員職を求め出馬した。このラベルは、ホイッグという名前では信用が無くなって放棄されているが、元ホイッグ党員は民主党には反対しているということを知らせる必要があったために使われたと見られている。選挙の後、実際に反対党が下院の最大党となり、議員数234に対し、反対党100、民主党83、およびアメリカ党(ノウ・ナッシング党)51となった。ノウ・ナッシング党のために、共和党も民主党もその候補者が過半数を得られなかった。妥協のために共和党はノウ・ナッシング党候補者ナサニエル・プレンティス・バンクスを指名した。これはアメリカの議会両院で初めて連衡政府ができた例となった。下院は第36期、第37期および第38期でも同じような板挟みに陥った。これらの会期で選ばれた3人の下院議長は、皮肉なことに以前のブロードシール戦争の議論でホイッグ党の代表団を証明したニュージャージー州知事のウィリアム・ペニントン、次がガルーシャ・A・グロウ、最後はユリシーズ・グラント政権で副大統領になったスカイラー・コルファクスだった。 下院の議長選挙で1回では決まらなかったものは第65期と第72期が最後となった。1917年、3人の進歩党とその他の党の単一議員がそれぞれの候補者に投票したために、共和党と民主党のどちらの候補者も過半票を得られなかった。共和党は下院で最大党派だったが進歩党の支持のためにジェイムズ・クラークが下院議長に留まった。1931年、共和党と民主党の議員数はどちらも217人となり、ミネソタ農夫労働者党の1人がどちらに投票するかを決める者となった。農夫労働者党は最終的に民主党候補者ジョン・ナンス・ガーナーに投票し、ナンスは後にフランクリン・ルーズベルト政権の副大統領になった。 最近の下院議長選出で注目すべきは1999年のものだった。1998年の総選挙で共和党の成績が揮わなかったことを広く責められたニュート・ギングリッチ議長は再選を求めず、下院からの引退を宣言した。その予想された後継者は歳出委員会委員長のボブ・リビングストンであり、共和党大会でも反対無く候補指名を受けた。しかし、リビングストンはビル・クリントンのセクハラ裁判でその偽証を公に批判していた者だったが、自身が不倫に関わっていたことが暴露された後で突然下院議員を辞職した。その結果、次席のデニス・ハスタートが下院議長に選ばれて務めることになった。 2006年11月16日、当時下院民主党院内総務だったナンシー・ペロシが次の下院議長になるべく民主党から選ばれた。第110議会(英語版)は2007年1月4日に招集され、ペロシは共和党候補者ジョン・ベイナーと争い、233対202の票決で第60代下院議長に選出された。ペロシは下院議長に選ばれた最初の女性であり、当然ながらアメリカ合衆国大統領の承継順位第2位にあった。第111議会でも再選され、第112議会で民主党が多数党の地位を失うまで2期務めた。
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