花合歓や畔を溢るゝ雨後の水
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評 言 |
市井の片隅に生きる町人や下級武士などの人生模様を、的確且つ温かな筆致で描き、時代物という文学ジャンルに独自の世界を築いた作家・藤沢周平の句である。この句は、嘗て藤沢が教師をしていた故郷山形県庄内地方の旧中学校跡地に、その教え子達によって平成8年9月に建てられた記念文学碑に刻まれている。 地元の師範学校を出て教職(新制の中学)に就くも、結核治療の為僅か2年で辞めざるを得ず、その後は長く苦しい入院生活や業界紙記者などの遍歴を経て、作家として本格的なスタートした時は、40代も半ばを過ぎていた。しかし26歳からの数年間、療養の傍ら俳句を作り続け、静岡県浜松で刊行されていた「馬酔木」系の俳誌「海坂(うなさか)」に、本名を一字だけ変えた小菅留次の名で熱心に投句していたことは、晩年になるまで余り知られなかった。所謂“療養俳句”が多かったが、青春の孤独を見詰めつつ、人生への焦燥や郷里に対する複雑な思いを詠った句の数々は、またたく間に「海坂」選者の百合山羽公と相生垣瓜人(共に蛇笏賞の俳人)に認められ、時には巻頭を占めるほどの実力を示した。藤沢の時代小説の中に登場する「海坂藩」という架空の藩の名は、俳誌名の「海坂」に因むと、本人も認めている。作句は若い時分の数年間で終わったが、生死の際に立った青年が、冷静に自己を見詰めて客観化し得た年月は、後の作家藤沢を育んだ胎動期でもあった。 藤沢の生まれ故郷に近い鶴岡市は海坂藩のモデルとなった静かな美しい城下町であり、公設の記念館もある。のびやかで独特の抑揚を持つ庄内弁や、米どころとしても有名な故郷の風物に、終生深い思いを寄せていたが、冒頭の句碑の序幕後、その生涯に残された時間は僅か4ヶ月余りであった。 撮影:青木繁伸(群馬県前橋市)</font |
評 者 |
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備 考 |
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