良寛に愛された貞心尼
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相馬御風は、次のように述べている。 古来男女の間に唱和された歌で広く世に知られているものは、無論少なくない。しかし、今日までに私自ら読んだものでは、万葉集中の少数を除く外は、その表現の切実味を以って胸をうつような作には、あまり多く接することが出来なかった。ところが、十数年前はじめて良寛和尚の歌を読み、その中に彼と彼の最愛の弟子貞心尼との間に唱和された五十余首のあったのに接して、私はかくも淳真な、かくも切実な、かくも無礙な、かくも温かな、そしてかくも清らかな男女間の愛の表現があり得るものかと驚嘆措く能はなかったのである。そもそも此の良寛貞心唱和の歌は、良寛没後貞心尼が苦心蒐集した良寛歌集「蓮の露」の終わりに添えてあるものであって、これほど数多く男女唱和の歌が一まとめにしてあるという点でも、古来あまり多くその類を見ないところであろう。それには尼貞心が僧良寛と初めて相識ってから、最後に良寛の死によって永遠の別れを告げたまでの間に、両者の間に詠みかわされた歌の大部分がしるされている。そしてその歌集の序文の終わりに貞心尼自ら「こは師のおほんかたみと傍におき朝夕にとり見つつ、こしかたしのぶよすがにもとてなむ。」と云っているように、もともとそれは彼女みずからの追憶の料としてしるし集めたものであった。そこに此の集に対して一段のゆかしさを私達に覚えさせるものがある。 — 相馬御風 、「良寛に愛された尼貞心」『貞心と千代と蓮月』1930, p. 3 何という純真な愛の表現であろう。「いざさらばわれはかへらむ……」の如き、「歌やよまむ手毬やつかむ………」の如き、或いは「梓弓春になりなば……」の如き、さては「いついつと待ちにし人は………」の如き、よむ度毎に私達はその情緒のみづみづしさと、温かさと、清さとに感動させられずにはいられぬのである。而もそれが七十歳の老僧と、三十歳の美しい尼との間にとりかわされた愛の表現であることを思う時、私達はそこになみなみならぬ清い愛の世界の展開を想わずにいられぬのである。嘗て私は此の二人の関係について書いた折にも云ったように、この七十歳の老法師と三十を越えたばかりの此の尼僧との関係は、一面に於ては正に仏門に於ける師弟の交りであつた。又同時にそれは歌の道、芸術の世界、美の天地に於ける師弟でもあり、又道づれでもあった。而も現身の人間としての両者の関係は、或時は親子のそれであり、或時は兄妹のそれであり、或時は最も親しき心友のそれであり、更に或時は最も清い意味での恋人のそれでさえもあったろう。清くして温く、人間的にして而も煩悩の執着なく、霊的にして而も血の通った、美しく尊く、いみじき愛ーまったく私はいつも此の良寛と貞心との交りをおもう毎に、何ともいえない心のうるおひに充たされるのである。 齋藤茂吉氏も嘗てその著「短歌私鈔」の中で此二人の交りについてこんなことを云っていた。「良寛と貞心との因縁は極めて自然である。この事を思う毎に予はいい気持になる。良寛は貞心に会ってますます優秀なる歌を作った。その歌は寒く乾き切ったものでなく、恋人に対するような温い血の流れているものである。人間は生の身であるから、いくら天然を愛したとて、天然は遠慮なく人間に迫って来る。そこにいて心細くないなどというのは虚である。良寛は老境に達してから淨い女の貞心から看護を受けた。本当の意味の看護である。良寛にとっては、こよなき Gerokomik の一つであったろう。世に尊き因縁である。」 この齋藤氏の見方には、私達も真に同意することが出来る。いかにもそれは世にも稀な尊い因縁であったのである。良寛和尚の美しい生涯を考える上に、私はどうしても此の最晩年に於ける和尚と貞心尼との交りをおろそかにすることは出来ないと同時に、良寛和尚の生活に対すると同じく貞心尼その人の生活に対してもやみがたい興味をおぼえるのである。 — 相馬御風 、「良寛に愛された尼貞心」『貞心と千代と蓮月』1930, p. 16~18
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