良寛に会うために木村家を訪問とは? わかりやすく解説

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良寛に会うために木村家を訪問(文政十年春 四月十日頃 30歳)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 05:42 UTC 版)

貞心尼」の記事における「良寛に会うために木村家を訪問(文政十年四月十日30歳)」の解説

貞心尼は、良寛に会うために、文政十年四月十日前後初め木村家訪れ卯月十五日附の手紙を木村家出している。 何かたにか御座なされ候やらん やがてまたあつき時分は御かへり遊さるべくと存じ候へば どふぞやそのみぎり参りたき物とぞんじまゐらせ候 わたくしもまづ当分柏崎へはかへらぬつもりにて さえわひ此ほどくじまとところにあき庵の有候まヽ 当分そこをかりるつもりにいたし あとの月より参りおり候 されどへんぴのところよへ便り遠に候まゝ もし御文下さるとも良い他のあぶらや喜左衛門様まで御出しくだされば 長岡まで日々便り有候まゝさやうなし被下度候 何事もまた御めもじのふしゆるゆる申上べく まづは御礼までにあらあらめで度く かしく 卯月十五貞心 のとや元右衛門様 御うち殿御もとへ ※著者坡が述べているように、この書簡文政十年四月のものと思われる前半欠けているようだが、「何かたにか御座なされ候やらん」とある人物は、良寛指しているのではあるまいか。良寛四月、すでに密蔵院入っていたわけだ。また貞心尼は、「あとの月より参りおり候」と記しているので、三月から長岡福島閻魔堂移ったようだ。それまで柏崎下宿(しもじゅく)で、尼僧同志共同生活続けていた。 — 谷川敏朗 、『良寛 伝記年譜文献目録1980, p. 400 「何かたにか御座なされ候やらん、やがてまたあつき時分は御かへり遊さるべくと存じ候へば、どふぞやそのみぎり参りたき物とぞんじまゐらせ候。わたくしも、まづ当分柏崎へはかへらぬつもりにて、さえわひ此ほどくじまとところにあき庵の有候まヽ、当分そこをかりるつもりにいたし、あとの月より参りおり候(下略)」 の、能登屋元右エ衛門方へ宛てた卯月十五日附の書簡前文欠というが、(堀前掲書)この書出し良寛禅師動静伝えたものに相違なく、そうだとすれば島崎移った翌年のこととなり、あとの月、即ち文政十年三月福島えんま堂に移るや否や直に島崎に訪庵したのであろう。〔中略良寛文政九年十月九日島崎遷居を阿部定珍に報じ翌年夏(四月早々であろう寺泊照明寺密蔵院寓居したことを再度珍に通知している。したがって前記詞書(1)出会いの手まりの贈答歌は、林甕雄本「良寛禅師歌集」の付箋に「この贈答の歌は貞心尼良寛禅師をとひけるに、おはしまさヾりけれバ、手まりこれやこの歌をそへて残しおきける。師後につきてみよの歌をかへし玉ふと遍澄師いふ」とあるように、密蔵院仮寓不在中の出来事であった。 — 宮 栄二 、「貞心尼良寛 : 関長温との離別説」『越佐研究40, 1980 ところで、木村家宛てた貞心の手紙によると、四月十日前後貞心は、木村家訪問したらしい。良寛に会うためだった。しかし残念なことに、良寛はすでに密蔵院移っていたので、貞心むなしく帰らざるを得なかった。その手紙の中で貞心は、「やがてまたあつき時分は御かへり遊さるべくと存じ候へば、どふ(ママ)ぞやそのみぎり参りたき物とぞんじまゐらせ候」と述べ、さらに「もし御文を下さるとも与板あぶらや喜左衛門まで御出くだされば長岡まで日々便り有候まゝ、さやうなし被下度候」と、良寛が帰庵したならば知らせてくれるように、それとなく依頼している。婉曲な態度中にも貞心熱意感じられる。 — 谷川敏朗 、「良寛貞心尼のこころ」『良寛貞心 その愛とこころ』1993, pp. 2021 富沢明 新潟大学名教授が、良寛貞心尼出会い文政10年秋であることを裏付ける良寛直筆の書を2011年平成23年9月上旬発見した貞心尼良寛最初に訪ねた時には良寛は旧寺泊町長岡市)にある照明寺密蔵院滞在していて会えず、その後初め会えたのは26年27年頃で、場所は旧和島村(同)の木村家だったとされていた。良寛密蔵院にいた時期分かれば貞心尼初め会ったのがいつかについて特定できるが、分からないままだった。 富沢さんが見つけたのは、「観音堂の脇(密蔵院)の庵(いおり)で‥‥」で始まる漢詩を含む良寛直筆遺墨。〔中略漢詩のほかに、短歌が2首書かれており、紙の冒頭に「亥夏作」とあることから、亥年いのししどし)の夏に詠まれたことが分かった短歌1825年文政8年)~1829年文政12年)頃の作品とされていたが、この間亥年27年文政10年しかないため、漢詩詠まれたのは27年夏で、この時期には密蔵院にいたと特定した。さらに初対面2人詠みあった歌で、良寛秋の夜寒さについて詠んでいることから、2人会ったのは秋だったとみられる良寛28年夏は木村家にいたことが別の史料わかっているため、富沢さんは「貞心尼良寛初対面27年秋だった」と結論づけた。 — —  、読売新聞朝刊 新潟12版、2011年10月26日

※この「良寛に会うために木村家を訪問(文政十年春 四月十日頃 30歳)」の解説は、「貞心尼」の解説の一部です。
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