脳梗塞との闘い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 20:21 UTC 版)
2004年8月8日、大阪府立体育会館で行われた新日本G1 CLIMAXリーグ戦・健介戦後のバックステージで、突然、右手の自由が利かなくなり、リング上で受け取った勝利者賞の目録を落とした。その後、控え室に戻ろうとしたが、今度はドアノブを扱えず、立ち眩みで倒れてしまう。周りにいたレスラーや関係者が異変に気付き、救急車を呼び、高山は富永病院へ搬送された。富永病院は大阪府立体育会館のすぐ近くにあり、脳神経治療では国内トップレベルで知られていた。病院に運ばれた高山に即カテーテル手術が施された。 発症してから手術までの時間が3時間以内であれば、後々の後遺症も最小限で済む可能性が高いと言われている脳梗塞であるが、病院まで救急車で10分以内の距離で発症し、2時間で全ての手術を終えることが出来たため、主治医は「高山さんはかなり強運の持ち主だった」と語っている(外部リンク参照)。 高山は手術後、喋ることが出来たり、動かなかった手足が動くようになっていたことで、「これはすぐに復帰出来る」と思っていたそうだが、しばらく経つと、思ったように言葉が出なかったり、今まで出来ていた動きが出来なくなっていることに気付いたことから、不安視するようになった(高山は「思考回路すら麻痺していた」と話している)。以後、大好きだったコーヒーをやめて、水を一日6リットル飲むように心がけたり、肉を食べることをやめて魚と野菜中心の食生活にしたりと、日常生活を改善。リハビリも開始した。また飲酒もやめた。 医師からは「自分で体力が戻ったと思ったら、いつでも復帰していいが、その前に診断を受けるように」と言われていた。高山は復帰に向けてトレーニングを続け、2005年の末には、壊死していて以前のような動きが出来なくなったものに対しては、他の器官で欠場前と同じような動きを出来るようにするトレーニングや、少しずつ頭部に負荷をかけるトレーニングを始めていることを明かした。欠場中は先述のゲスト解説に加えて、ラジオ番組やテレビドラマにゲスト出演するなどタレント活動に専念していた。 復帰までの間、高山は宮戸優光のジム「U.W.F.スネークピットジャパン」にて復帰に向けたトレーニングを積んでいたほか、解説者としてノアの会場を訪れた際も、試合前に受け身などの練習をしていた。2006年3月5日のノア武道館大会に解説者として来場した際、試合前の選手練習中に、病気離脱後初めて後ろ受け身の練習を行った。 約2年間の休養後、2006年7月16日のノア武道館大会にて復帰することが決定し、健介とタッグを組んで秋山・三沢組との対戦という最高のカードが用意された。プロスポーツ選手で脳梗塞から復帰した前例はないとされている(当初は高山のパートナーは小橋であったが、腎腫瘍摘出手術による欠場のため、変更になった)。試合は半分以上高山が捕まる展開となり、その時点で持っている力を出し尽くし、欠場中の小橋へのエールをこめてマシンガンチョップを放ったりしたが、結局三沢のエメラルド・フロウジョンと秋山のリストクラッチ式エクスプロイダーを連続して食らって敗れた。この日は高山の復帰を待望していたかのように、日本武道館には超満員となった。 試合では、散々三沢のエルボーや秋山のジャンピング・ニー・バットを食らい続けたが、10分程控え室で休んだ後元気そうにプレスルームに現れ、健介と肩を組んで元気に記者会見に応じていた。 この復帰戦直前に、元々タッグパートナーとして共闘することになっていた小橋が腎臓癌により離脱・手術を行うことになり、復帰戦についてのコメントをノア中継内求められた際、ファンと小橋に向けて「みんながジメジメしたら小橋建太が戦えなくなるから、明るく希望を持って、彼の帰りを待とう。小橋建太のために戦うとか、そういう大それたことは言えないけど、俺は全力で戦って、武道館後もリングに生き残るから、小橋建太、必ず戻って来い」という暖かいメッセージを送った。別のインタビューでは「俺は脳梗塞を克服して戻ってきた。ここでお前が癌に負けるようなことがあれば、プロレスラーとしてお前は俺に負けたことになるぞ。それが嫌だったら、何年かかっても絶対に戻って来い」と高山ならではの励ましのコメントを送った。 2007年12月2日の小橋の腎臓癌からの復帰戦前には、タッグパートナーを務めることに関して「彼の(病気の)ことは俺が一番分かるつもりだから」と話している。
※この「脳梗塞との闘い」の解説は、「高山善廣」の解説の一部です。
「脳梗塞との闘い」を含む「高山善廣」の記事については、「高山善廣」の概要を参照ください。
- 脳梗塞との闘いのページへのリンク