脆弱な宋金同盟
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 08:48 UTC 版)
「海上の盟」も参照 女真族は現在の中国東北部から北東アジアにかけての地域に居住していたツングース系の半農半猟の部族であった。女真族の大半は遼に臣従しており、当時の遼はモンゴル・中国北部・東北部・契丹・朝鮮北部・極東ロシアの一部を支配する遊牧民族帝国であった。遼と宋は良好な関係にあったが、1005年の衝突による澶淵の盟以来、宋は毎年絹20万本と銀10万両を歳幣として支払っていた。一方で女真族に対する遼の支配では、初夜権が契丹側にあるなどとされたため、女真族側では支配に大きな恨みが残った。また宋の公主たちも契丹に送られたが、貞節を奪われて自殺したり、貞節を奪われることに抵抗して殺されたりした。1114年には、女真族を統一した完顔阿骨打が遼に対して反旗を翻した。1115年には金の皇帝を名乗った。遼の亡命者から女真族の反乱成功を聞き、宋側の徽宗や主将の童貫は遼の弱体化に目を付け、燕雲十六州奪還を目論んだ。 宋金両国の間の陸地は遼の支配領域であったため、外交上の接触は渤海を経由する他なく、契丹からの馬の輸入という名目で移動し、同盟交渉を開始した。宋の使者は1118年に金の宮廷に辿り着いた。翌年には金の使者が開封を訪れ、盟約が結ばれた。当初両国は遼の領土の分割を約束しており、1120年の時点での合意では燕雲十六州の割譲を条件に遼へ払っていた歳幣の金への支払いを約束していた。しかし1120年末、金は遼の殆どを制圧したのに対し、宋は十六州の一部しか占領できず、金は十六州の西端にある西京大同府(現在の大同市)を占拠した。宋金両軍は金が遼の中京大定府を始めとする中央部を、宋が南京析津府(現在の北京市)を占領すると合意した。遼への共同戦争は当初1121年に開戦予定であったが翌年に変更され、その年の2月23日に金は中都を占領した。宋は西夏との戦争に加え方臘の乱の影響で参戦が大いに遅れ、1122年5月になってようやく童貫ら宋軍が燕京を攻撃したものの、逆に撃退されてしまった。そのため童貫らは開封への一時撤退に追い込まれてしまった。第1攻撃の後、完顔阿骨打は盟約を変更し、燕京及び他六州のみを割譲した。また1123年初頭に金は遼の南京析津府を陥落させ、住民を奴隷化して拉致し、財産をも略奪して宋に明け渡した。遼の急速な崩壊により宋金両国の交渉が活発になった。金は割譲しなかった十六州の一部を効果的に支配し、より大きな影響力を持つようになった。完顔阿骨打は軍事的に殆ど貢献しなかった宋が十六州の残りを占拠しようとしていると聞き、不満を募らせた。1123年春に宋金両国はようやく第1次宋金条約を締結した。この条約では宋へ返還される領土は燕京を含む七州となり、残り九州は金領と定められた。また宋は金に対して絹30万本と銀20万両の歳幣を支払い続ける事となり、更に返還七州分の税収の補償として銅貨100万貫を一括で支払う事となった。1123年5月になり、童貫ら宋軍は既に金軍によって略奪された空城となった燕京に入城した。
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