肖像写真・空中写真
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1854年、余裕のできたナダールは、現在のパリ9区界隈サン・ラザール街(サン・ラザール通り, Rue Saint-Lazare)にある建物へ移転した。日光のよく入る部屋をアトリエにして、ナダールは新技術である写真による肖像の探求に打ち込み、ここで写真スタジオを開いた。当時、写真はダゲレオタイプに代わり湿式コロジオン法が開発され、普及するなど技術革新が進み、パリ中に写真館が登場し、肖像写真を撮ってもらうことがブームとなっており、ナダールの写真館も軌道に乗り始める。同年、ナダールはプロテスタントの裕福な家庭出身の若い女性エルネスティーヌと結婚したが、結婚後も若い芸術家や詩人などボヘミアンたちとの交友や彼らへの支援は続いた。また同時期、ナダールは弟を支援して肖像写真家としての腕を磨かせたが、弟も「ナダール」の名で写真業を営もうとしたため兄弟で争いとなった。 ナダールは、画家の道具が素材の革新で野外に持ち出せる道具になったのと同様に、写真機も外出や旅行へ手軽に持ち出せる道具となるべきだと考えた。これにナダール自身の気球への関心や気球操縦者としての活動が加わり、1858年10月23日、パリ西部近郊クラマールにおいて、ナダールは気球研究家のゴダール兄弟が操縦する気球で世界初の空中撮影を行った。真上からの視点で見たパリ市街の写真に、こうした視線から都市を見たことのない当時の人々は非常に驚いた。気球に乗って写真を撮るナダールを描いたドーミエの風刺画『写真を芸術の高みに浮上させようとするナダール』(Nadar, élevant la photographie à la hauteur de l'Art) は有名である。 また空中だけでなく地下にも興味を持ち、パリの地下に広がる墓地カタコンブ・ド・パリや下水道に入ってマグネシウムの人工光を用いた長時間露出で撮影したほか、性的な写真も撮影した。 自身の"旋回"セルフ・ポートレイト。1865年頃 ナダールの異母弟で写真家、カリカチュリストのアドリアン・トゥルナション 上空からのパリ市街地。1868年 パリ市街地の地下のカタコンブを撮影したシリーズ。人工光を用いて20分以上露出して撮られたため、生きている人物はマネキンで代用した。 パリ市街地の地下の下水道を人工光で撮影したシリーズ。 半陰陽の人物を撮影したシリーズ。 1860年、場所が狭くなってきたため、ナダールはスタジオをサン・ラザール街からカプシーヌ大通り (Boulevard des Capucines) 35番地に移した。ナダールはここで人工光による撮影の実験を行ったほか、シャルル・ボードレール、サラ・ベルナール、フランツ・リスト、ジョルジュ・サンドなど第二帝政期当時のフランスの主だった文化人を始め、政治家、軍人、君主などをも撮影し、肖像写真家として引く手あまたとなった。 ナダールの肖像写真はわざとらしさが少なく、対象となる者の自然さや精神性を引き出すことに成功している。これには装飾的要素の少なさや、アングルや光の当て方の工夫による、画面内の光が見る者に対して生む心理的効果が貢献している。
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