最後の晩餐 (ボウツ)
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『最後の晩餐』(さいごのばんさん、オランダ語: Het laatste avondmaal)は、ディルク・ボウツによる、高さ180cm、幅290smの トリプティク(3連の祭壇画)で、ボウツの代表作のひとつ考えられている作品。
- ^ “Altaarstuk van het Heilig Sacrament”. Lukas - Art in Flanders. 2015年7月18日閲覧。
- 1 最後の晩餐 (ボウツ)とは
- 2 最後の晩餐 (ボウツ)の概要
- 3 参考文献
聖餐の秘跡の祭壇画
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「ディルク・ボウツ」の記事における「聖餐の秘跡の祭壇画」の解説
『最後の晩餐 (Last Supper)』は『聖餐の秘跡の祭壇画』の中央パネルで、1464年にルーヴェン・サクラメント協会 (Leuven Confraternity of the Holy Sacrament) の依頼で描かれた。遠近法を用いて室内が表現され、画面に描かれた中央の部屋の壁などの垂直面、交点はイエスの頭上のマントルピースの中央へと収束し、そこに消失点が置かれている。『最後の晩餐』は、北ヨーロッパでペトルス・クリストゥスが1457年にフランクフルトで描いた『玉座の聖母と聖ヒエロニムスと聖フランチェスコ (Virgin and Child Enthroned with St. Jerome and St. Francis)』に次ぎ二枚目の、ルネサンス初期のイタリア人芸術家が完成させた透視図法を用いて描かれた絵画である。 学者たちはこの絵画がフランドルのパネル画で最初に「最後の晩餐」を題材とした作品であることも指摘している。ボウツは『最後の晩餐』を聖書の物語風には描いておらず、イエスがホスチアを聖別するミサの神父であるかのように描いている。この点が、ユダの裏切りやヨハネを慰撫するイエスなどを主題として他の画家たちが物語風に描いた「最後の審判」との大きな相違点となっている。さらに他の「最後の審判」にはあまり見られない、窓から顔をのぞかせている2人と立っている2人計4人の召使を、フランドル風の服装を身につけた状態で描いている。これらの召使はボウツ自身と彼の二人の息子ではないかとされたこともあったが、現在ではこの祭壇画をボウツに依頼した協会の人々を描いた肖像画であると考えられている。 もともとこの『最後の晩餐』はルーヴェンの聖ペトロ参事会教会 (St. Peter's Church, Leuven) にあった祭壇画『聖餐の秘跡』の一部分で、これは『最後の晩餐』を中心として両側に2枚ずつの翼を持つ祭壇画だった。しかし19世紀にベルリンとミュンヘンに両翼が散逸してしまい、現在では完全な復元は難しい。左翼は過越祭とその上部にアブラハムとメルキゼデクが、右翼はマナの収集とその上部に預言者エリヤと天使が描かれていたパネルで構成されていたと考えられている。これらは全て聖書の予型論的解釈によれば、中央パネルに描かれた「最後の審判」の予兆となる事象となっている。 ルーヴェンの都市公認画家になったボウツは1468年にルーヴェン市庁舎 (en:Leuven Town Hall) のための2枚の作品制作を依頼された。1枚目が1468年から1470年に描かれた祭壇画『最後の審判 (Last Judgment)』である。この祭壇画は2枚の翼しか現存しておらず、「楽園への道 (Road to Paradise)」、「呪われた者の墜落 (Fall of the Damned) が現在フランスのリール美術館に、イエスの半身が描かれた中央パネルの断片がストックホルムのスウェーデン国立美術館にそれぞれ所蔵されている。この後ボウツは大きな祭壇画『皇帝オットーの裁判』の依頼を受け、1470年から1475年に死去するまでこの祭壇画の作成に没頭した。ボウツは1枚目のパネルを完成させ、2枚目のパネルにも取り掛かった。どちらのパネルにも神聖ローマ帝国皇帝オットー3世が描かれている。現在ブリュッセルのベルギー王立美術館に所蔵されているが、残りの2枚のパネルは未完成のままである。
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