経過と再開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/18 22:05 UTC 版)
1916年(大正5年)に地元の有志によって設立された佐賀紡績は、この地区に大規模な工場を建設し、事業を展開した。佐賀紡績は鈴木商店系列に入り、鈴木商店の倒産により大和紡績に吸収合併されて、大和紡績佐賀工場となった。1987年(昭和62年)4月に佐賀工場は閉鎖され、この地区は「大和紡績佐賀工場跡地」となった。跡地約97,000m2は佐賀市に売却された。 その後跡地の有効利用の議論が活発化し、1990年(平成2年)にその用途の概要が決定された。公共施設の建設や企業の立地が決まり、移転や建設が進んだ。また、あわせて道路の再整備、バス停の設置、周辺の河川や緑地の再整備なども進行していた。しかし、依然として地区の名称は「大和紡績跡地」「大和紡跡地」のままであり、さまざまな弊害が出始め、名称決定への早期着手を望む声が相次ぐようになった。1994年(平成6年)12月に市は跡地名称の公募を開始し、1995年(平成7年)3月に決定した。 再開発や施設利用に当たっては、さまざまな試みも行われた。佐賀市立図書館の建設に当たっては佐賀県内の市町村としては初めて一般競争入札を行った。また、当時としては珍しい都道府県立の女性センター設置や、「アバンセ」の館長の全国公募なども行われた。 用地南側は施設と公園が整備されているが、北側の一部は依然として空き地となっている。2005年(平成17年)には佐賀県立病院好生館の移転が検討されたが、市民の間で賛成と反対の意見が分かれたほか、市と県の対立もあり、最終的には同市南西部の嘉瀬町に決定した。 国道264号のうち、長崎本線高架下付近からどんどんどんの森東側を通り、辻の堂交差点に至るまでの約1.5kmの区間が「紡績通り」と名付けられている。また、どんどんどんの森の北東端には工場で働いてきた工女を模した織姫像が建立されており、工場の名残が残されている。
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