経営権剥奪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 17:02 UTC 版)
「ウィリアム・C・デュラント」の記事における「経営権剥奪」の解説
1909年初頭にGM創業が世間に知られるようになると、マスコミはこれを『デュラントの愚行("Durant's folly")』と揶揄したが、GMは1910年には自動車販売で3400万ドルを売り上げ、1050万ドルの営業利益を計上し、これで悪評は払拭された。しかし、それもつかの間だった。楽観的な拡大策は現金不足を生み出し、銀行が経営に手を出すこととなった。 1910年はキャディラックがセダンタイプの車をはじめて米国で登場させた年だった。この年のゼネラルモーターズの市場占有率は22%となり、全米の2割を占めた。ビュイックとキャディラック以外の傘下企業はGMの企業経営に貢献しなかった。GMは財務危機となり、1910年9月にはデュラントが経営権を失った。 買収が会社に打撃を与えた典型的な例として1910年のヒーニー・エレクトリック(Heany Electric Co.,)がある。ジョン・アルバート・ヒーニーの電球バルブの特許とその会社を買収した取引で、買収後に、この特許に対してゼネラルエレクトリック社(GE)から訴えを起こされた。しかも、訴訟中に書類偽造で追訴された。ヒーニー自身は無罪となったが、彼の周囲の関係者が有罪となった。ヒーニー買収にはビュイックとオールズの合計額以上の資金を投入したため、デュラントの買収対象選択眼に対する信頼が揺らいだ。この事件でGMは多額の金を失い、GMの財務基盤を弱めデュラント追放の大きな要因となった。 この後東部の銀行グループがデュラントの尻拭いをおこなった。 1500万ドルの負債を抱えたデュラントは改善計画を銀行に提案したが、ボストンのファースト・ナショナル・バンクを中心に集まった銀行はデュラント案を却下した。銀行はGMの復活はありえないと考えGM清算を考えていたが、そのとき欧州にいたヘンリー・リーランドに代わり、息子のウィルフレッドが説得にあたり、銀行は大量の株式を保有して自らが中心となり取締役会を仕切る形でGMを建て直す方針に変更した。このときの銀行にはボストンのリー・ヒギンソン銀行、ニューヨークのチェイス・ナショナル銀行、コンチネンタル銀行があった 「リー・ヒギンソン&カンパニー(ボストン、Lee, Higginson and Company)とJ&Wセリグマン・カンパニー(J. and W. Seligman and Company)」はGMを「議決権信託」(voting-trust - 株主の権利から議決権だけを分離し信託する)の管理下に置き、銀行家が持株会社(GM)の議決権の5分の4を保持することを認めさせた。5人が共同経営(議決権の信託を引き受けた者)することとなり、デュラントはその共同経営者の1人となった。他の4人は銀行側の代表であり、デュラントが経営に采配を振ることは事実上できなかった。デュラントがGMを創業して2年しかたっていなかった。デュラントはGM主要株主の地位も保証され、取締役会(ディレクター)の役員およびバイスプレジデントとして留まっていたが実質上の経営権は剥奪された。 「議決権信託」により、GMは現金1275万ドルを借り入れ、社債1500万ドル分を発行し5年での償却期間とするという大変厳しい条件だった。このとき社債の購入者に対しGMの普通株式が同時に与えられた。これが、のちにデュラントがGMに復帰できる道具となった。()
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