第3次戦争とは? わかりやすく解説

第3次戦争(1568年 - 1570年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:31 UTC 版)

ユグノー戦争」の記事における「第3次戦争(1568年 - 1570年)」の解説

1568年夏、この和平反抗するようにカトリック各地ユグノー迫害始めユグノーもこれに報復してカトリック虐殺した王太后カトリーヌ・ド・メディシス協調派の大法官ミシェル・ド・ロピタルを罷免し、政情カトリック優勢へ傾いた。身の危険感じたコンデ公ルイコリニー提督ユグノー指導者たちは宮廷脱出したが、彼らの部下多く殺害された。9月サン・モール勅令出されユグノー礼拝の自由は再び禁じられてしまった。11月ネーデルラント反乱軍指導者オラニエ公ウィレムプロテスタント支援するために軍を率いてフランスへ侵攻する。だが、彼の軍隊給与十分に支払われておらず、このため国王資金通行の安全を申し出る撤退してしまった。 それにもかかわらずユグノーコンデ公ルイ司令官とし、フランス南西部軍勢ドイツからのプロテスタント民兵プファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヴォルフガング率い1万4千の傭兵部隊を含む)の助け受けて強力な軍隊編成した傭兵部隊コンデ公ルイ戦死後ユグノー雇用され続けており、このためユグノーナバラ女王ジャンヌ・ダルブレ王冠宝石担保イングランドから借金をしている。ユグノー軍資金多くイングランド女王エリザベス1世から提供されたもので、これは彼女の腹心フランシス・ウォルシンガム影響力よるもの考えられている。カトリック軍は王弟アンジュー公アンリ司令官となり、スペイン教皇領トスカーナ大公国援軍得ていた。 ユグノー軍はラ・ロシェル防衛のためにポワトゥーとサントンジュ地方幾つかの都市包囲し、それからアングレームコニャック攻めた1569年3月16日のジャルナックの戦いでユグノー司令官コンデ公ルイ戦死し狂喜したアンジュー公アンリコンデ公死体ロバつないで引きずり回している。 ユグノーコンデ公15歳息子アンリ名目上司令官としてコリニー提督指揮執ることになり、また国王の権威対抗するためにナバラ女王ジャンヌ・ダルブレ16歳息子アンリ・ド・ベアルンを指導者とした。 ユグノーラロシュラベイユ戦い1569年6月25日)に勝利したもののポワチエ奪取することはできず、モンコントゥールの戦い1569年10月30日)で国王軍大敗喫してしまう。コリニー彼の軍隊南西部後退してモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュ合流し再編行い1570年春にトゥールーズ掠奪し南部への連絡路切断、そしてローヌ渓谷進軍しパリから200kmのラ・シャリテ・シュルラ・ロワールに達した戦争によって王家負債激増しており、シャルル9世平和的解決望んだため、1570年8月8日サン・ジェルマン和議結ばれ、再びユグノー対す譲歩なされた

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