第3次戦争(1568年 - 1570年)
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「ユグノー戦争」の記事における「第3次戦争(1568年 - 1570年)」の解説
1568年夏、この和平に反抗するようにカトリックが各地でユグノーの迫害を始め、ユグノーもこれに報復してカトリックを虐殺した。王太后カトリーヌ・ド・メディシスは協調派の大法官ミシェル・ド・ロピタルを罷免し、政情はカトリック優勢へ傾いた。身の危険を感じたコンデ公ルイとコリニー提督らユグノー指導者たちは宮廷を脱出したが、彼らの部下の多くが殺害された。9月、サン・モール勅令が出され、ユグノーの礼拝の自由は再び禁じられてしまった。11月、ネーデルラント反乱軍の指導者オラニエ公ウィレムがプロテスタントを支援するために軍を率いてフランスへ侵攻する。だが、彼の軍隊は給与を十分に支払われておらず、このため国王が資金と通行の安全を申し出ると撤退してしまった。 それにもかかわらず、ユグノーはコンデ公ルイを司令官とし、フランス南西部の軍勢とドイツからのプロテスタント民兵(プファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヴォルフガング率いる1万4千の傭兵部隊を含む)の助けを受けて強力な軍隊を編成した。傭兵部隊はコンデ公ルイの戦死後もユグノーに雇用され続けており、このためにユグノーはナバラ女王ジャンヌ・ダルブレの王冠の宝石を担保にイングランドから借金をしている。ユグノーの軍資金の多くはイングランド女王エリザベス1世から提供されたもので、これは彼女の腹心フランシス・ウォルシンガムの影響力によるものと考えられている。カトリック軍は王弟アンジュー公アンリが司令官となり、スペイン、教皇領、トスカーナ大公国の援軍を得ていた。 ユグノー軍はラ・ロシェル防衛のためにポワトゥーとサントンジュ地方の幾つかの都市を包囲し、それからアングレームとコニャックを攻めた。1569年3月16日のジャルナックの戦いでユグノーの司令官コンデ公ルイが戦死し、狂喜したアンジュー公アンリはコンデ公の死体をロバにつないで引きずり回している。 ユグノーはコンデ公の15歳の息子アンリを名目上の司令官としてコリニー提督が指揮を執ることになり、また国王の権威に対抗するためにナバラ女王ジャンヌ・ダルブレの16歳の息子アンリ・ド・ベアルンを指導者とした。 ユグノーはラロシュ=ラベイユの戦い(1569年6月25日)に勝利したもののポワチエを奪取することはできず、モンコントゥールの戦い(1569年10月30日)で国王軍に大敗を喫してしまう。コリニーと彼の軍隊は南西部へ後退してモンゴムリ伯ガブリエル・ド・ロルジュと合流し再編を行い、1570年春にトゥールーズを掠奪して南部への連絡路を切断、そしてローヌ渓谷を進軍し、パリから200kmのラ・シャリテ・シュルラ・ロワールに達した 。戦争によって王家の負債は激増しており、シャルル9世が平和的解決を望んだため、1570年8月8日にサン・ジェルマン和議が結ばれ、再びユグノーに対する譲歩がなされた。
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