第1留 -ピラトに裁かれる-
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「ヴィア・ドロローサ」の記事における「第1留 -ピラトに裁かれる-」の解説
第1留は現在、男子校の敷地となっている場所にあり、16世紀以来ヴィア・ドロローサの始発点に定められている。この場所は神殿の丘の北側に位置し、第2神殿時代にはアントニオ要塞があった。キリスト教の伝承では、イエスはその要塞の中でピラトに裁かれたとされている。ただし歴史家、あるいは考古学者の多くは、総督官邸はアントニオ要塞ではなく、現在ダビデの塔が建てられているヤッフォ門の傍らにあったと推定している。 「 人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った。明け方であった。しかし、彼らは自分では官邸に入らなかった。汚れないで過越の食事をするためである。そこで、ピラトが彼らのところへ出て来て、「どういう罪でこの男を訴えるのか」と言った。 彼らは答えて、「この男が悪いことをしていなかったら、あなたに引き渡しはしなかったでしょう」と言った。 ピラトが、「あなたたちが引き取って、自分たちの律法に従って裁け」と言うと、ユダヤ人たちは、「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と言った。それは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、イエスの言われた言葉が実現するためであった。 そこで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。-『ヨハネによる福音書』 18:28~18:33 」 十字軍の時代、キリスト教の伝承に従ってアントニオ要塞の遺構の上に礼拝堂が建てられたのだが、サラーフッディーンによる1187年のエルサレム占領後、礼拝堂はイスラム墓地に改装された。その後、14世紀のマムルーク朝によるエルサレム支配の時代に軍司令官の官邸をも兼ねたマドラサが建てられ、オスマン帝国支配下の初頭にはパシャの住居、あるいは政府施設としても使用された。19世紀になると、今度はトルコ軍の兵舎に改装されており、現在の男子校の姿に落ち着いたのは1923年のことである。このような変遷もあって、敷地内には過去にいくつもの建造物が築かれた。ただし、校庭に十字軍時代のヴィア・ドロローサの敷石が残されている以外、聖墳墓教会内の留のような過去を留める遺物は現存していない。なお、学校施設内には授業終了後にしか入ることができない。 毎週金曜日の午後、フランシスコ会の修道士の先導のもと、この場所から行進が始まり、多くの巡礼者や観光旅行者が後に続く。修道士や巡礼者の有志は道中、木製の十字架を背負って繁華街を練り歩く。その行進のさなか、各留ごとに足を止め、苦難の道を歩んだイエスにまつわる十四の場面が回顧される。各留にはそれぞれ固有の礼拝があるのだが、いずれもが最後にスターバト・マーテルの祈りを捧げるのが慣例になっている。
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