第五期・石炭衰退・閉山期とは? わかりやすく解説

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第五期・石炭衰退・閉山期(1964 - 1974年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 19:43 UTC 版)

端島 (長崎県)」の記事における「第五期・石炭衰退・閉山期(1964 - 1974年)」の解説

1960年以降は、主要エネルギー石炭から石油への移行エネルギー革命)により衰退。特に1964年の九片治層坑道自然発火事件痛手となり、炭鉱規模縮小される。これ以降人口急速に減少する。しかし端島炭坑1965年昭和40年)に三ツ瀬区域の新坑が開発され一時期持ち直し人口減ったものの機械化合理化によって生産量戦時中に迫る水準となった。さらに、空き部屋となった2戸を1戸に改造するなどして、住宅事情劇的に改善した。この時期端島住民アンケート調査行った長崎造船大学片寄俊秀によると、住民充足度も高く、この時期端島は、福祉施設の不足を賃金の高さでカバーしている他は、全てが狭い所で完結している、「シビル・ミニマムの完全充足期」と評される。 しかし、1970年代以降エネルギー政策影響を受け、1970年端島沖開発が中止になり、会社側が鉱命終了期を発表その後数百トン石炭残したまま1974年昭和49年1月15日閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民4月20日までに全て島を離れ4月20日連絡船の「最終便」で退去し総務課N氏端島最後見届けるべく乗船していた研究者片寄俊秀阿久井喜孝、片寄友達である作家小松左京らの離島をもって端島無人島となった。しかしその後すぐに人がいなくなったわけではなく高島鉱業所による残務整理もあり、炭鉱関連施設解体作業1974年の末まで続いた片寄俊秀は、「職住近接」、「シビル・ミニマム充足」、「住宅問題解消」の3つの実現をもって、この時期端島を「理想郷」とも評しているが、最終的に鉱山閉山となり、少しの退職金を手に全国散らばった老齢の元坑員の再就職苦労という現実取材していることから、「端島において外見的に実現していた『理想郷そのものが、真に人間要求するものではなかったことを証明しているのではないか」と、一方でやや批判的な見方もしている。いずれにせよ同時期の殺伐とした本土とは全くかけ離れた社会であるこの時期端島も、日本一部であり、日本一つ尺度とみている。

※この「第五期・石炭衰退・閉山期(1964 - 1974年)」の解説は、「端島 (長崎県)」の解説の一部です。
「第五期・石炭衰退・閉山期(1964 - 1974年)」を含む「端島 (長崎県)」の記事については、「端島 (長崎県)」の概要を参照ください。

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