第二次世界大戦戦中と戦後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 14:00 UTC 版)
「南アメリカの建艦競争」の記事における「第二次世界大戦戦中と戦後」の解説
第二次世界大戦中も第一次世界大戦中と同じく、軍艦購入がほぼ不可能な状態だった。それが可能になったのは戦後に英米が余剰軍艦を処分しようとしたときだった。第二次世界大戦では戦艦が時代遅れであることが証明されたため、南米諸国の海軍は巡洋艦、駆逐艦、潜水艦を求めたが、フラワー級コルベットやリバー級フリゲート以上の大型艦の購入は政治的に難しく、状況が変わったのは赤狩りがアメリカと国際政治に強く影響するようになってからだった。そして、1949年の相互防衛援助法(英語版)に基づき、米国は1951年1月に軽巡洋艦6隻をアルゼンチン、ブラジル、チリに売却した。これは米国の南米における同盟国の海軍を増強したが(米州相互援助条約に基づき米国の戦争を支援する必要があった)、海軍史家のロバート・シェイナは米国政府がこれを機にアルゼンチン、ブラジル、チリ間の海軍競争を介入した。米国の軽巡売却は3国の海軍の強さを同等にし、3国にそれを受け入れさせたのであった(アルゼンチンは戦前には自軍の軍艦数がブラジルとチリを足したものと同等にすべきと主張した)。 南米の弩級戦艦は戦後も引き続き就役した。米国海軍のオール・ハンズ(英語版)誌は1948年の報道でサン・パウロとアルミランテ・ラトーレを除く全艦船が就役中で、アルミランテ・ラトーレは修理中でサン・パウロは廃艦となったと報じた。現代の巡洋艦、フリゲート、コルベットが導入されたことで、戦艦の多くが解体、売却された。ブラジル海軍は当時就役中の弩級戦艦のうち世界最古のものを有しており、1951年に解体のためにサン・パウロを売却したが、牽引中にアゾレス諸島の北で嵐に遭って沈没した。ミナス・ジェラエスも2年後売却され、1954年初にジェノヴァで解体された。アルゼンチンの弩級戦艦のうち、モレノは1957年に解体のために日本まで牽引され、リバダビアも1959年初にイタリアで解体された。アルミランテ・ラトーレは1951年にエンジン室が爆発した後、修理もなされずに放置されたが、1958年10月に廃艦となり、1959年にモレノとともに日本に向かった。 戦艦に代わる海軍の主力としてアルゼンチンとブラジルはイギリス製のコロッサス級航空母艦(アルゼンチン海軍の「インデペンデンシア」とその代艦の「ベインティシンコ・デ・マヨ」、ブラジル海軍の「ミナス・ジェライス」)を購入した。 それまでアルゼンチン、ブラジル、チリに海軍力で後塵を拝していたペルーは1950年代以降、イギリスのセイロン級軽巡洋艦2隻やオランダのデ・ロイテル級巡洋艦2隻を購入するなどの大規模な海軍拡張を続けて行い、戦艦を退役させて空母や軽巡洋艦が海軍の主力となっていたアルゼンチン、ブラジル、チリと同等の海軍を整備した。
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