第二次世界大戦後:音楽顧問ワルターとミトロプーロスの時代
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「ニューヨーク・フィルハーモニック」の記事における「第二次世界大戦後:音楽顧問ワルターとミトロプーロスの時代」の解説
ロジンスキーは厳格なトレーニングでニューヨーク・フィルを立て直しつつあったが、あまりにも厳格な姿勢が楽員から疎まれ、また現代曲を積極的に取り上げたプログラム・ビルディングは理事会からも反発を買った。彼はズボンの尻ポケットにピストルを入れてオーケストラとの練習に臨んでいたという。1947年から1949年にかけてまたもや音楽監督を置かず、ブルーノ・ワルターが音楽顧問という形でニューヨーク・フィルの中心的存在となっていた。 1949年から1950年は、レオポルド・ストコフスキーとギリシャ出身のディミトリ・ミトロプーロスが同じ立場を継いだ。ミトロプーロスは1951年に音楽監督となった。彼はリハーサルからすべてを暗譜で行うという驚異的な記憶力の持ち主で、切れ味鋭い解釈と集中力の高い演奏は高く評価されていた。残された録音を聞いても、彼の個性が色濃く反映された演奏が多い。レパートリーも広く、とくに現代曲を多く取り上げたが、これがまた楽員や保守的な聴衆から反感を買った。1940年代から1970年代までの長きにわたって首席オーボエ奏者をつとめた伝説的な名手ハロルド・ゴンバーグは、ミトロプーロス反対運動の中心人物でもあった。オーケストラは求心力を取り戻せないまま低迷が続き、ニューヨークの音楽界やマスメディアには、フィルハーモニックの救世主を待望する論調が見られるようになってきた。 なお、1950年代にエヴェレスト・レコード社から、レオポルド・ストコフスキー、レナード・バーンスタイン、カルロス・チャベス(作曲家で、自作自演を行った)などが指揮する「ニューヨーク・スタジアム交響楽団」のレコードが発売されているが、これは契約上の関係からのニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の変名だといわれている(いわゆる「覆面オーケストラ」)。
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