第二期 正統派マルクス主義者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 04:55 UTC 版)
「高畠素之」の記事における「第二期 正統派マルクス主義者」の解説
1908年に出所した高畑は、新たな運動の可能性を求め神戸、大阪、名古屋を放浪。京都では第三高等学校の英語教師ケデーの門番をつとめたほか、夜間学校の英語教師も務めた。 一方、1910年(明治43年)9月には、社会主義者で『共産党宣言』翻訳者の堺利彦が、大逆事件で壊滅した日本の社会主義者のため、東京市四谷南寺町(現・須賀町)売文社を立ち上げ、その名の通りの売文稼業で生計を立てていた。堺はその後に大逆事件で死刑になった人々の遺族を弔うべく、西日本を旅していた。高畠に転機が訪れるのは、1911年(明治44年)頃に、岩崎革也の手引きで堺に再会したことにある。堺は、高畠が既にドイツ語を身につけていたので、すぐさま売文社の技手として雇うことにした。 こうして高畠は1911年(明治44年)9月、売文社に入社した。当時は大杉栄がフランス語を、高畠素之がドイツ語を担当していた。明治から大正初年にかけては、日本では社会主義者に対する取り締まりが極度に厳しかったため、売文社では、政府の圧迫を避けるため、『へちまの花』と題した文芸雑誌風の読み物を編集し、わずかに同志間の連絡を保つことしかできなかった。しかし第一次世界大戦による政治情勢の変化し、社会主義に対する取り締まりの軟化を見てとった堺は、直ちに『へちまの花』を『新社会』と改題し、1915年(大正4年)9月、社会主義運動を高唱し始めた。 1916年(大正5年)には山川均が売文社に合流し、しばらくして売文社は堺利彦・山川均・高畠素之の合名会社となった。 高畠は、1917年(大正6年)から『資本論解説』の翻訳を開始。マルクス経済学の数少ない参考書を世間に発表する。また売文社でも、山川均とともに中枢的位置を占めるようになった。
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