第二期: ブレヒトとの協働 (1925 - 1932)
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1926年、アイスラーは同じユダヤ系で師匠のアルノルト・シェーンベルクに手紙を送りつけ、弟子であるにもかかわらず師匠を破門、ドイツ共産党に入党。これには師の十二音技法が民衆の求めるものから乖離しているという音楽上の理由とシェーンベルクが君主制支持の反民主主義者であるという政治上の理由があったとされる。 シェーンベルクの指導による初期の批評的な音楽から、ジャズに影響を受けたシンプルな形式の曲へとスタイルを変えていく。作曲する曲はマルクス主義を反映した政治的なものが多くなり、ベルトルト・ブレヒトと協働、ブレヒトが作詞した曲を書くようになる(たとえば、『処置』や『母』など)。こうして新ウィーン楽派から離れ、以後は独自の道を歩むことになる。 この時期に作曲された、もっとも規模が大きい曲は1935年から1957年にかけて書かれた『ドイツ交響曲』で、反ファシズム抵抗カンタータとなって結実する。この作品はこんにちにいたるまで、ほとんどひとに知られることなく、また、演奏されることの少ない曲のひとつであった。しかし、ここ十数年の間に相次いで CD が発表されるようになり、知名度が高まってきている(、 など数多い)。
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