第二地銀のトップバンク
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 00:26 UTC 版)
「東京相和銀行」の記事における「第二地銀のトップバンク」の解説
山梨県北巨摩郡安都玉村(現:北杜市)に生まれた実質的創業者の長田庄一(1922年7月2日 - 2010年2月15日)が、国鉄職員、応召を経て、戦後の混乱に乗じて得た資金を元手に1949年6月、西新宿の淀橋浄水場近辺に日掛け金融会社「平和勧業」を設立。その後金融当局が、合併・統合に応じた金融会社には無尽業法の正式な免許を与える方針を示したことから、1950年2月、平和勧業、東京殖産、東京興産の3社が合同して東京協和殖産無尽株式会社を設立。翌1951年10月、相互銀行法の制定・施行によって東京相互銀行として発足した。 東京相互銀発足時、長田は常務であったが、都銀からの買収攻勢や内紛、さらに行内のモラルハザードをみかねた大蔵省が天下りによって新社長を送り込もうと画策するも、それらを跳ね除け1969年5月、46歳で社長に就き、ファミリー企業を介して東京相互銀の株式を買い占め銀行オーナーの地位を盤石なものとした。しかし、営業店にゴルフ会員権やロイヤルゼリー販売の口利きをさせていたことが国会で問題となり、1975年には会長に退くも、引き続きワンマン体制を維持した。その後も長田は法に抵触しかねない、淡島ホテル、長泉山荘(現・ウィンダムガーデン長泉)、東京湾トロットクルーズといったファミリー企業の経営するゴルフ場やリゾート施設の会員権を行員に融資と組み合わせて顧客に販売させるなど、公私混同も目立っていた。 出身地である山梨県は、かつて東武鉄道の根津嘉一郎、若尾銀行・東京電灯の若尾逸平、山一證券の小池国三などを輩出し、財界において俗に甲州財閥と呼ばれる一派を形成していた。長田もこうした地縁を最大限に利用し、また池田勇人元首相ら政治家の知遇を得て、中央政界や大蔵省などにも強い繋がりを持ったとされる。本店を持つ第二地方銀行がない山梨県では、東京相和銀行は県外から進出していた金融機関では最も多い5支店を置いていた。 長田は手記で、「銀行が、経済界で大きな顔をしていることが間違い。私たちは実業の手伝いをするわき役」と述べていたが、実態はファミリー企業や、交友関係のある不動産会社やアイチなどのノンバンクに対する不透明な融資に傾斜し、「東京・銀座や赤坂の飲食店のメーンバンク」と言われた。また、三井銀行と親密な関係にあったことから、度々合併が噂され、その合意寸前までいったこともある。しかし、長田自身が要求したポストは「新・三井銀行代表取締役会長」職であったため、三井側が難色を示しご破算になった。 1989年2月、普通銀行への転換により東京相和銀行となり、「東の東京相和、西の兵庫銀行」と呼ばれ、資金量などを巡って第二地銀トップの座を競った。奇しくも両行とも後に経営破綻・営業譲渡の道を歩むこととなる。
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