第二代 松風院日爽上人時代とは? わかりやすく解説

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第二代 松風院日爽上人(長松清涼師)時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 22:55 UTC 版)

妙深寺」の記事における「第二松風院日爽上人長松清涼師)時代」の解説

日博上人後継として、御講尊日晨上人指導のもと、日博上人息女の夫の長松清涼師(日爽上人)を住職代務として就任昭和四十四年に正式に第二住職となる。まだ二十代若き住職のもと、妙深寺新たな時代始まった清涼師は、日博上人伝統護り、さらに発展させるために、日博上人のご年回あわせた中・長期弘通計画立て、教講一体となって弘通奉公努める。昭和四十四年日上人御三回忌奉修、記念事業として戸塚別院建立また、現在も続く「妙深寺報」の発刊信者みんなが心から楽しめる行事をと、大運動会開催以後京浜グループ一大イベントとして三十年に亘り毎年開催昭和四十五年、ガールスカウト神奈川24団発団。妙深寺特色一つでもある薫化会・青年会・ボーイスカウト・ガールスカウトの「教養四会」は、協力しながら青少年育成励んでいる。 昭和四十七年、日博上人七回忌記念事業として三ツ沢新本建立移転岡野町旧本堂信者みんなの手により解体された。翌四十八年には開筵式が挙行二千四百名の参詣で賑わった。昭和五十一年教養会館建立。ボーイスカウト・ガールスカウトなどの集会室にあわせ、「教務寺内に住むべき」との先住意向により、教務住宅併設された。 昭和五十四年、先住十三回忌記念事業として、大和別院新本堂が完成昭和六十二年には、第二本堂納骨堂を含む多目的会館)を建立ガラス製の御本尊御宝前は、洋式結婚式行えるようにとの日爽上人意向で、「新時代寺院」として新聞テレビで報道された。 平成元年町内の方との交流のため、第一回観桜会さくらまつり)を開催。現在も春の町内会行事として広く認知され毎年多く賑わい見せている。 平成五年四月三日、日爽上人は、観桜会準備中自転車で崖から転落脳挫傷から意識不明となった。この大変な事態対し信徒一丸となって昼夜分かたぬ不眠不休のお助行実施四十九日目となる五月二十一日奇跡的に意識回復しその後後遺症も全くなく奉公復帰、現証の御利益信者顕したその間門祖併せ日博上人二十七回忌を無事奉修、秋の高祖会には、妙深寺創立五十周年記念式典盛大に開催された。 日博上人作られ土台の上に、さらに様々な発案によって大きく妙深寺発展させた日爽上人は、その奉公後進に譲るように、平成十二六月十四日六十二歳にて遷化

※この「第二代 松風院日爽上人(長松清涼師)時代」の解説は、「妙深寺」の解説の一部です。
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