第二代 松風院日爽上人(長松清涼師)時代
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「妙深寺」の記事における「第二代 松風院日爽上人(長松清涼師)時代」の解説
日博上人の後継として、御講尊日晨上人の指導のもと、日博上人の息女の夫の長松清涼師(日爽上人)を住職代務として就任、昭和四十四年に正式に第二代住職となる。まだ二十代の若き住職のもと、妙深寺の新たな時代が始まった。 清涼師は、日博上人の伝統を護り、さらに発展させるために、日博上人のご年回にあわせた中・長期の弘通計画を立て、教講一体となって弘通・奉公を努める。昭和四十四年日博上人御三回忌奉修、記念事業として戸塚別院を建立。また、現在も続く「妙深寺報」の発刊。信者みんなが心から楽しめる行事をと、大運動会を開催、以後京浜グループの一大イベントとして三十年に亘り毎年開催。昭和四十五年、ガールスカウト神奈川第24団発団。妙深寺の特色の一つでもある薫化会・青年会・ボーイスカウト・ガールスカウトの「教養四会」は、協力しながら青少年の育成に励んでいる。 昭和四十七年、日博上人御七回忌の記念事業として三ツ沢に新本堂建立、移転。岡野町の旧本堂は信者みんなの手により解体された。翌四十八年には開筵式が挙行、二千四百名の参詣で賑わった。昭和五十一年、教養会館建立。ボーイスカウト・ガールスカウトなどの集会室にあわせ、「教務は寺内に住むべき」との先住の意向により、教務住宅が併設された。 昭和五十四年、先住御十三回忌の記念事業として、大和別院新本堂が完成。昭和六十二年には、第二本堂(納骨堂を含む多目的会館)を建立。ガラス製の御本尊・御宝前は、洋式の結婚式も行えるようにとの日爽上人の意向で、「新時代の寺院」として新聞やテレビでも報道された。 平成元年、町内の方との交流のため、第一回観桜会(さくらまつり)を開催。現在も春の町内会行事として広く認知され、毎年多くの賑わいを見せている。 平成五年四月三日、日爽上人は、観桜会の準備中に自転車で崖から転落、脳挫傷から意識不明となった。この大変な事態に対し、信徒は一丸となって昼夜を分かたぬ不眠不休のお助行を実施、四十九日目となる五月二十一日、奇跡的に意識を回復し、その後、後遺症も全くなく奉公に復帰、現証の御利益を信者に顕した。その間、門祖会併せ日博上人御二十七回忌を無事奉修、秋の高祖会には、妙深寺創立五十周年記念式典が盛大に開催された。 日博上人が作られた土台の上に、さらに様々な発案によって大きく妙深寺を発展させた日爽上人は、その奉公を後進に譲るように、平成十二年六月十四日、六十二歳にて遷化。
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