第一軍の鴨緑江渡河
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:03 UTC 版)
詳細は「鴨緑江作戦」を参照 10月中旬、清は、国土防衛のため、朝鮮との境界鴨緑江に沿って将兵30,400人と大砲90門を配置していた。もっとも、平壌から敗走した約10,000人(うち傷病2,000人)が含まれる部隊は、士気が低い上に新募兵が多い等、自然の要害九連城の防衛などに困難が予想された。さらに、総指揮を執る宋慶にも問題があり、やがて諸将間で不協和音が生じることになる。 10月15日、糧食不足に苦しむ第一軍は、司令部が安州(平壌と義州の中間地点)にようやく到着し、大本営から「前面の敵をけん制し、間接に第二軍の作戦を援助」との電報を受け取った。第二軍の第一波が遼東半島に上陸した24日、陽動部隊が安平河口から、21時30分に架橋援護部隊が義州の北方4km地点から、鴨緑江の渡河を始めた。翌25日6時、予定より2時間遅れで、本隊通過用の第一・第二軍橋が繋がった(ただし第二軍橋が脆弱で、臼砲6門と糧食の通行が後回しにされた)。6時20分、野砲4門が虎山砲台(九連城から4.5km)に砲撃を開始し、歩兵の渡河が続いた。清軍に強く抵抗されたものの、虎山周辺の抵抗拠点を占領した(日本軍の戦死34人、負傷者115人)。翌26日早朝、第一軍は、九連城を総攻撃するため、露営地を出発した。しかし、清軍が撤退しており、無血入城となった。 その後、第三師団は、鴨緑江の下流にそって進み、27日に河口の大東溝を占領し(30日、兵站司令部を開設)、11月5日補給線確保のために黄海沿岸の大狐山を占領した(11日、兵站支部を開設)。第五師団は、糧食の確保後に内陸部に進み、要衝鳳凰城攻略戦を開始した。10月29日、騎兵ニ箇小隊が鳳凰城に接近すると、城内から火が上がっていた。14時50分に騎兵は城内に突入し、清軍撤退を確認した。このため、主力部隊による攻撃が中止された。
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