笠利氏とは
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伊賀倉俊貞『校正鹿児島外史』等によれば、笠利氏は源為朝(頼朝・義経の叔父)の嫡男・為頼(母:阿多忠景の娘)の直系子孫とされているが、琉球国正史である『中山世鑑』に登場する舜天とつなぐ系図も存在するなど、その実体は不明である。 『笠利氏家譜』等によると、本祖の笠利為春(かさり ためはる/1482年- 1542年)は、琉球の第二尚氏初代尚円王の父・尚稷(しょうしょく)の孫であるとされ、王命により1504年に奄美大島に渡り、名瀬間切首里大屋職となる。その後中国に渡り、1542年に亡くなったとされる。 第2代の当主・為充(ためみつ)は、瀬戸内東間切首里大屋職に、第3代・為明(ためあき)は、笠利間切の首里大屋職に琉球王から任命され、その際の任命書が現存している。為充への任命書は「志よ里の御み事 / せんとうちひがまぎりの / 志よりの大やこハ / 一人ひ可せとに / たまわり申す」、為明へのそれには「志よ里の御み事 / かさりのまぎりの大やこハ / 一人 きせの大やこに / たまわり申す / 志よりきせの大やこの主へまいる / 陸慶二年(1568年)八月廿四日」と和文で記されている( 志よ里とは首里、琉球国王のこと)。 第5代・為転(ためてん)の時代、1609年の薩摩藩の琉球侵攻を迎え撃つも大敗北を喫し、その蔵入地(直轄領)となり支配下に組み込まれる。しかし笠利氏は家督を奪われることはなく従来の地位が保全されるが、1623年に島津久元他4名連署による『大島置目之条々』が通達され、奄美の支配についての取り決めに従うことになる。 一方、為季(ためすえ、7・9代当主)が大坂の陣に参戦し、為成(ためなり、8代当主)が小姓として参勤交代に供奉(初代藩主・島津忠恒の時代)するなど、奄美を本拠地としながら藩政下で特別な扱いを受けていたことも窺える。 その後も本領への参勤や一族の一定期間の薩摩在住が義務付けられるなどの服属を強いられるが、第11代・為寿(ためじゅ)が1692年に第3代藩主・島津綱貴を表敬訪問した直後に家老・新納久行(にいな ひさゆき)が送付した丁重な礼状(元禄5年(1692年)10月5日付)が現存しており、その文面からも笠利氏が特別な地位を有していたことが確認できる。 ちなみに残存する系図等によると、本祖の為春以降、通字に「為」を使い続け、前述した源為朝とのつながりが強く意識されたことが想像される。また、400年以上も前から存在する田畑家の墓石の家紋には、清和源氏系の武家に多く見られる意匠「丸に一文字(横の棒線が丸枠を左右に突き出す)」が使用されている。
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