笠利氏とはとは? わかりやすく解説

笠利氏とは

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/02 02:19 UTC 版)

田畑氏」の記事における「笠利氏とは」の解説

伊賀倉俊貞『校正鹿児島外史』等によれば、笠利氏は源為朝頼朝義経叔父)の嫡男・為頼(母:阿多忠景の娘)の直系子孫とされているが、琉球国正史である『中山世鑑』に登場する舜天とつなぐ系図存在するなど、その実体は不明である。 『笠利氏家譜』等によると、本祖の笠利為春(かさり ためはる/1482年- 1542年)は、琉球第二尚氏初代尚円王の父・尚稷しょうしょく)の孫であるとされ、王命により1504年奄美大島渡り名瀬間切首里大屋職となる。その後中国渡り1542年亡くなったとされる第2代当主・為充(ためみつ)は、瀬戸内東間切首大屋職に、第3代・為明(ためあき)は、笠利間切首里大屋職に琉球王から任命されその際任命書が現存している。為充への任命書は「志よ里の御み事 / せんとうちひがまぎりの / 志よりの大やこハ / 一人ひ可せとに / たまわり申す」、為明へのそれには「志よ里の御み事 / かさりのまぎりの大やこハ / 一人 きせの大やこに / たまわり申す / 志よりきせの大やこの主へまいる / 陸慶二年(1568年八月廿四日」と和文記されている( 志よ里とは首里琉球国王のこと)。 第5代・為転(ためてん)の時代1609年薩摩藩の琉球侵攻迎え撃つ大敗北を喫し、その蔵入地直轄領)となり支配下組み込まれる。しかし笠利氏は家督奪われることはな従来地位保全されるが、1623年島津久元他4名連署による『大島置目条々』が通達され奄美支配についての取り決めに従うことになる。 一方、為季(ためすえ、7・9当主)が大坂の陣参戦し、為成(ためなり、8代当主)が小姓として参勤交代供奉初代藩主島津忠恒時代)するなど、奄美本拠地しながら藩政下で特別な扱い受けていたことも窺えるその後も本領への参勤や一族の一定期間薩摩在住義務付けられるなどの服属強いられるが、第11代・為寿(ためじゅ)が1692年第3藩主島津綱貴表敬訪問した直後家老・新納久行(にいな ひさゆき)が送付した丁重な礼状元禄5年1692年10月5日付)が現存しており、その文面からも笠利氏が特別な地位有していたことが確認できるちなみに残存する系図等によると、本祖の為春以降通字に「為」を使い続け前述した源為朝とのつながり強く意識されたことが想像されるまた、400年以上も前から存在する田畑家墓石家紋には、清和源氏系の武家多く見られる意匠丸に一文字(横の棒線が丸左右に突き出す)」が使用されている。

※この「笠利氏とは」の解説は、「田畑氏」の解説の一部です。
「笠利氏とは」を含む「田畑氏」の記事については、「田畑氏」の概要を参照ください。

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