竹村家とは? わかりやすく解説

竹村家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/01 21:39 UTC 版)

画像提供依頼:本館の外観の画像提供をお願いします。2015年11月
本館、別館

竹村家(たけむらや)は、広島県尾道市にある料亭旅館

経営者は武田氏[1][2]。1902年(明治35年)尾道市久保で洋食屋として創業。1920年(大正9年)同地で料亭旅館としてリニューアルオープンした「竹村家本館」と、1962年(昭和37年)尾道市美ノ郷町で温泉旅館としてオープンした「竹村家別館」からなる。料理は懐石[1][3]で、食事のみの利用もできる(4人から、要予約)[4]

竹村家本館

竹村家 本館
ホテル概要
運営 竹村家
部屋数 5室
開業 1902年(明治35年)
改装 1920年(大正9年)
所在地 〒722-0045
広島県尾道市久保三丁目14-1
位置 北緯34度24分35.7秒 東経133度12分26.7秒 / 北緯34.409917度 東経133.207417度 / 34.409917; 133.207417
公式サイト 公式サイト
テンプレートを表示

南は尾道水道に面し、客室の窓のすぐ外が海になっている[1]。このような構造は尾道では竹村家本館と魚信の2軒だけ[1]。客室の他に、2階に約100人収容できる大広間がある。

主屋・門および塀が国の登録有形文化財[3]小津安二郎東京物語』ゆかりの旅館であり、その時の記念品が飾られており、宿泊客の2/3が映画ファンであるという[1]

施設

概略
  • 開業 : 1902年(明治35年)[4]
  • 建物 : 木造2階建、数寄屋造[4]
  • 客室 : 和室5室、宿泊は10人まで[4]。(2022年時点で会食・宴会は受け付けていない)
文化財
  • 主屋 - 1920年(大正9年)竣工。建築面積481m2。桟瓦葺。東西方向の北棟と南北方向の南棟が直行しT字型を形成している。竹材を多用した書院造[5]
  • 門 - 北側道路に面し、やや西よりに設けられた門。切妻造、銅板葺[6]
  • 塀 - 北側道路に面する塀。真壁造、桟瓦葺で、黒漆喰に横長の小窓が付く[6]
  • 灯籠 - 裏庭にある。浮き彫りの太閤柄と太閤菊が特徴のもの。元々は聚楽第にあったと伝えられる[7]

交通

竹村家別館

竹村家 別館
ホテル概要
部屋数 9室
開業 1962年(昭和37年)
所在地 〒722-0215
広島県尾道市美ノ郷町三成1650
位置 北緯34度26分57.1秒 東経133度11分53.8秒 / 北緯34.449194度 東経133.198278度 / 34.449194; 133.198278
公式サイト 公式サイト
テンプレートを表示

尾道市中心部から北にあり”尾道の奥座敷”といわれる養老温泉郷にある。本館と同様に数寄屋造だが設備は近代化している。別館には温泉施設を併設しており、日帰り入浴もできる。

施設

  • 開業 : 1962年(昭和37年)
  • 建物 : 鉄筋・木造2階建[4]
  • 客室 : 和室9室、35人まで[4]

交通

  • おのみちバスあるいは鞆鉄バス美ノ郷温泉口バス停下車、徒歩約5分
  • おのみちバスあるいは中国バス温泉口バス停下車、徒歩約5分
  • JR尾道駅下車、車で約15分
  • JR新尾道駅下車、車で約5分
  • 山陽自動車道尾道ICから車で約5分
  • しまなみ海道西瀬戸尾道ICから車で約15分

沿革

洋食屋

尾道は瀬戸内海随一の海運および商業の町として栄え、一時は広島県経済の中心地であった[8]。その時代の尾道で、中心街に近い久保町”渡瀬橋”東詰に1902年(明治35年)西洋料理屋「竹村家」として開店した[9]。尾道に初めて出来た洋食屋だった[3]。“アサヒビアホール”の看板を掲げていたがビアホールの形態ではなく洋食屋であった[9]

志賀直哉暗夜行路』の草稿にこの店のことが書かれている[9][10]

海岸の方に出て見た。海に面した所に大きな、料理屋があつて、此所では盛んに三味線太鼓の音がしてゐた。小さい橋を渡ると、矢張り海へ面した川口にアサヒビールの看板を出した西洋料理屋があった。そこで晝食をした。細々した事を書くとキリがないが、ライスカレーをいふと、それに生玉子を一つつけて來たりした。
暗夜行路草稿4(校正後) , 原稿19-20[9][10]

なお暗夜行路草稿4は志賀の日記と同等のものであるとされており、つまり志賀がここでカレーを食べたことになる[10]

またアイスクリームも売られていた[9]。冷蔵・冷凍庫もまだ誕生していない時代で[11]、アイスは大変貴重なものだった[9]。現在、竹村家で出されるデザートのアイスは当時と同じ製法のもので出されている[9]

ただ、この洋食屋は火事により全焼した[7]

料理旅館

『東京物語』で、平山とみ(東山千栄子)の葬儀後の食事のシーンに竹村家が用いられた[12]
株式会社竹村家
種類 株式会社
本社所在地 日本
722-0045
広島県尾道市久保3-14-1
設立 1902年
業種 サービス業
法人番号 4240001038251
事業内容 旅館業
テンプレートを表示

1920年(大正9年)、火事を機に料理旅館として全面的に建て替えられた[7]。これが現在の竹村家本館である[7]

林芙美子は竹村家二代目女将と尾道高等女学校(広島県立尾道東高等学校)の同級生であり、林が尾道に立ち寄った際にここで歓迎会が行われその時の写真が残っている[7]

ここが一躍有名となったのは、小津安二郎東京物語』でのことである。この映画は尾道でも撮影されたがロケが決まった理由の一つとして、当時の竹村家主人と脚本家の柳井隆雄がいとこだったため協力しやすかったというもの[2]。小津ら主要スタッフ、笠智衆原節子香川京子ら主要キャストがここに宿泊している[3][12][2]。俳優陣の尾道弁の指導には竹村家の主人と女将も参加し、東山千栄子の尾道弁は竹村家の女将そっくりになったという[3][2]

『東京物語』内に、周吉(笠)・修(十朱久雄)・三平(東野英治郎)の3人による飲み屋での会話の中で三平(東野)が「ああ竹村家でか?」と言ったあと大笑いするシーンがあるが、これは小津が竹村家への感謝として台詞を加えたものと言われている[13]。東京物語のオマージュである山田洋次東京家族』は主に大崎上島でロケが行われ、ここで撮影は行われなかったがその台詞はそのまま残っている[14]

若い頃尾道で暮らしていた新藤兼人は竹村家をよく撮影に用い、例えば若年期の自伝的な作品である『石内尋常高等小学校 花は散れども』で屋内ロケの1/3のシーンをここで撮影している[14][1]

現状

1962年(昭和37年)養老温泉郷に新たに竹村家別館をオープンする。

2004年、本館の主屋、門、塀が国の登録有形文化財に登録された。

脚注

[脚注の使い方]
  1. ^ a b c d e f 映画ゆかりの文化財の宿”. 観光経済新聞. 2022年11月29日閲覧。
  2. ^ a b c d 小津が見た日本の原風景 <上>東京物語”. 読売新聞 (2014年9月24日). 2014年11月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月29日閲覧。
  3. ^ a b c d e 広島老舗物語”. あっぱれ!熟年ファイターズ (2013年1月5日). 2014年11月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月29日閲覧。
  4. ^ a b c d e f ご案内”. 竹村家. 2022年11月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月29日閲覧。
  5. ^ 竹村家主屋 たけむらけしゅおく”. 文化庁. 2022年11月29日閲覧。
  6. ^ a b 竹村家門及び塀 たけむらけもんおよびへい”. 文化庁. 2022年11月29日閲覧。
  7. ^ a b c d e 竹村家の大正”. 竹村家. 2022年11月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月29日閲覧。
  8. ^ マニア泣かせ?またまた新観光スポット誕生!尾道歴史博物館 OPEN!”. 尾道観光協会. 2022年11月29日閲覧。
  9. ^ a b c d e f g 竹村家の明治”. 竹村家. 2022年11月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月29日閲覧。
  10. ^ a b c 寺杣雅人、大出奈奈、貝原和紗、佐々木名穂、立町智恵、宮本奈菜、渡邉春来「「暗夜行路草稿4」の影印と翻字」『尾道文学談話会会報 No.2』、尾道市立大学、2012年7月27日、2015年11月20日閲覧。
  11. ^ 家電の昭和史”. 家庭電気文化会. 2022年11月29日閲覧。
  12. ^ a b 竹村家の昭和”. 竹村家. 2022年11月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月29日閲覧。
  13. ^ 氷川きよしスペシャル 尾道編”. 旅の香り (2006年6月25日). 2014年11月1日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月29日閲覧。
  14. ^ a b 竹村家の平成”. 竹村家. 2022年11月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年11月29日閲覧。

関連項目

外部リンク


竹村家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 03:57 UTC 版)

居眠り磐音」の記事における「竹村家」の解説

竹村武左衛門たけむら ぶざえもん本所の南割下水の半欠け長屋に住む浪人本人は「伊勢津藩藤堂家家臣であったと言うが、実態数代前の先祖藤堂家仕官無役)していただけであり、自身には藤堂家仕えた経験はない。丹石流自称達人。妻・勢津と4人の子持ちつつも、収入はほとんど酒代使ってしまう。磐音、柳次郎とは用心棒仲間。後に侍の身分捨て磐城平藩安藤家下屋敷門番となる。 竹村勢津たけむら せつ) 武左衛門の妻。当てにならない夫を支えつつ、4人の子を養う強い母である。 竹村早苗たけむら さなえ) 武左衛門長女。父が仕事最中怪我をしたのを機に音の勧め尚武館道場奉公に出る。尚武館道場断絶した時は一時宮戸川奉公出ていたが、再興後は再び尚武館道場奉公する尚武館道場門弟田丸輝信結婚した竹村秋世たけむら あきよ) 武左衛門次女江戸に戻ってきた奈緒開いた最上前田屋」の店開き手伝ったことがきっかけで、紅染めや紅に興味持ち正式に奉公することとなった奈緒関前紅花栽培始めるに至って、店の運営任される竹村修太郎たけむら しゅうたろう) 武左衛門嫡男早苗・秋世の弟で父親に連れられて尚武館道場入門するが、稽古気持ち向かわず黒門町若衆組行動を共にしていた。後に改心し研ぎ師になるために鵜飼百助弟子入りする竹村市造たけむら いちぞう武左衛門次男。「最上前田屋」で働く秋世を訪ねたことがきっかけで紅染め興味持ち紅染め職人になるために三代わたって紅染め生業としてき本所篠之助のもとで奉公する

※この「竹村家」の解説は、「居眠り磐音」の解説の一部です。
「竹村家」を含む「居眠り磐音」の記事については、「居眠り磐音」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「竹村家」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「竹村家」の関連用語

竹村家のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



竹村家のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの竹村家 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの居眠り磐音 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS